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生の執着 生の軽視 止まってないで転がって踊れ

避けられないことではあるが、身内の不幸で個人的に苦しいことになっている
2週間前ほどから兆候があり覚悟していたのもありその瞬間が来た時は急激なショックに見舞われることはなかった
ただショックが全部終わりきってはいない(極端な話終わりの日までずっと背負っていくことにはなるだろう)ので峠は越しただのどうとかは言えない

かき乱されることなく淡々としているようにみえて心身に取れない疲労がずっとある 脱力に抗えない
劇的な悲しみとかは容態の急変を聞いた最初の方にあった
今からまた起きても全然おかしくはないし多分今も渦中でもある
間違いなく大きな影響を受けてしまった
それだけ大きな人と会えなくなってしまった

分かりやすい変化として命について考える
生命だけじゃなくて命だ
22歳頃まで死にてー、みたいなことも考える雑魚だったけど一時からぴたりと思わなくなった 確か自立した時期だったと思う
死にてー、は結局 全部解決してー、にでしかないけど心が幼いとどうしても簡略化してより実現性の低くて曖昧な方に持って行きたくなるのは必然なのかな?これに関しては他に語ることはないし全部解決してー期になったら当時の 死にてー期には戻ることはない
ただ本当に乗り越えられない苦しみに遭遇したら実現性の天秤が傾いてその限りじゃなくなる 
想像したくはないけど状況はかなりはっきり想定できる

個人的に結構不謹慎な冗談が好きだけど最初から色々切り離している自覚があるから特に呵責とかはない そもそも本心として俺は万人の生を軽視したことはないしせめてものTPOとして鍵垢でしかやらん
当事者や近しい人でない限り過度に反応するのも全然謹慎してないから正直不謹慎だと思っている 無関係なのにRIPとか言うなやアホですわアホ
当事者近しい人がしてほしいことなんて気を遣って大人しくしていることだし、死者を想うなんて本人が嫌というほどしていて何ならその人だけの想いだから他人の考えなんて失礼でノイズだし

前々から死をメインに取り扱うフィクションはチープだと思っていたが明確に怒りを感じるようになった ケータイ小説が揶揄されるようになって久しいのにいくらでも蔓延っていてキモい
舞台装置でしかない様なフィクションの死に別に何も揺り動かされはしないけど、根本から命を軽んじていないと出来ないことだと思う
舞台装置的なやっすい死を使わないと人を動かせない(実際これっぽちも動かんし)のが浅いし、そういう自分とちゃんと向き合えていない人は未熟で可哀想にも思える
実体験としての死を追憶して考えたり何かを伝えようとするのは全然REALなのでそっちは普通に表現として説得力あると思います
ただでさえ蓋をしてしまう体験をわざわざ反芻するのはその時点で身を切っているし、乗り越えたり上手く受け入れようとして立派なので

よくわからない変化としてずっとtofubeatsの水星しか聴いていない あと普通に聴きやすい
しばらくこれ以外全然聴こうと思わない
雅人だったあの人もミラーボールに乗って星の向こうに旅立ってしまったのかとかも思わないではないけどそれよりも 止まってないで転がって踊れ について考える
そう、生者しかこの世で踊れない 彼等がどうしても踊りたかった今日を生きているのは絶対真実なので過剰に悲しんで横たわっているのは絶対違う
止まってないで転がって踊れ

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