記憶すること
8月6日。
今から79年前に広島に原爆が落とされた日だ。
私は生まれてから約21年間、ずっと日本で過ごしてきた。
学校では、幼い頃から「平和教育」と題して、東京大空襲や広島・長崎に落とされた原爆について学んだ。
小学校の図書館で読んだ「はだしのゲン」は、あまりにも衝撃的だった。
たくさんの人が悲惨な死を向かえる描写は、吐き気を感じつつも目が離せなかったことを覚えている。
小学生の時に戦争を経験した祖父と祖母は、当時の話を始めると、怯えたような暗い表情になったことが鮮明に思い出される。
原爆を開発したアメリカの科学者を題材にした映画「オッペンハイマー」が日本で公開された時、ネット上では原爆の被害についての描写がないことに対する批判が多くみられた。
映画を実際に見てみると、原爆を開発してしまったことに対する精神的な葛藤が募るオッペンハイマー博士と、原爆投下の成功に歓喜するアメリカ政府・軍・市民の対比がとても印象的だった。
原爆の被害を受けた人がどうなってしまうかを幼い頃から学んでいた私は、日本人を「人」として考えていないアメリカの人々に、嫌悪感と憎悪を抱いた。
1948年、日本軍が撤退しアメリカ軍による統治が行われていた南朝鮮では、半島の南に位置する済州島で、島民の1/10にあたる約3万人が(のちの)韓国軍によって虐殺された。南の単独統一選挙に反対した一部の島民の武装蜂起によって、済州島が「アカの島」と認識されたからだ。
犠牲になった人の8割ほどが亡くなった焦土化作戦では、老若男女「動く人全てを撃ち殺せ」との命令が出された。
この出来事は、済州4.3事件と呼ばれている。
先日、済州島にある「済州4.3平和公園」を訪れた。
解説員さんの話の大部分は、日本がどれほど残酷な手段を使って朝鮮を統治してきたか、アメリカがどのように4.3に寄与したかの話だった。
私は、日本で教育を受ける中で、日本が周辺国に行ってきた植民地政策に関してほとんど学んでこなかった。
「皇民化政策を行なった」とだけ習っても、その中身と意図がどれほど被統治国を人間として扱わなかったかは習わなかった。
日本軍や日本の警察に刃向かうものは問答無用で牢屋に入れていたなど、15歳前後の済州の青年たちを特攻隊として徴兵していたなど、学校では一言も聞いたことがなかった。
日本は戦争の被害者であると同時に、たくさんの人を傷つけた加害者であることを、知る機会はなかった。
済州では、村のおばあちゃんたちの絵画教室も訪問した。
最高齢は94歳。
日本の植民地時代を経験した方々だ。
おばあちゃんの多くは、4.3をきっかけに学校に通えなくなり、読み書きができない。
第一言語であるハングルの読み書きはできなくても、日本語は話せるおばあちゃんたちに、とても複雑な感情を抱いた。
そして、おばあちゃんたちの中には、引退した海女も多いそうだ。
海女は、済州の伝統的な文化でありながら、植民地時代や戦後には、日本によって安い労働力として搾取されてきた歴史もある。
済州では、どこに行っても「日本」の影を感じた。
なぜ、日本軍から解放されて79年経った今も深く根付いている傷を、当事者である私たち日本人は知る機会がないのか。
「私たちは、日本人を憎んでいるのではなく、日本の政治を憎んでいるのです。」
4.3記念公園の解説員さんが幾度も繰り返していた言葉だ。
「日本人を憎んでいるのではない」と言われれば、どこか安心した気持ちになるかもしれない。
でも、日本人が自国の行ってきた加害の歴史を知ることは、私たちの最低限の義務なのではないか。
「歴史を忘れた民族に未来はない。」
「記憶することだけが、辛い歴史を繰り返さない方法である。」
同じく、4.3記念公園の解説員さんの言葉だ。
しかし、果たして「記憶すること」だけが本当に平和への道であるのか。
「平和記念式典」に招待された、現在進行形で虐殺を行う国の代表。
原爆の犠牲者を哀悼しつつも、核兵器禁止には否定的な被爆国のリーダー。
「平和記念式典」を欠席する原爆を落とした国の代表。
市民が記憶しても、権力がそれを見て見ぬふりをしてしまえば、なにも変わらないのではないか。
そんな無力感さえ感じてしまう現実だ。
被害と加害の歴史どちらにも向き合い、記憶し、その記憶を見過ごそうとする力に抵抗することこそが、今の私たちに求められていることだろう。
私たちは微力でも、無力ではないのだから。