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埋め立てられた川と橋があった場所(築地川その5)
築地川は今回の南支川が最後の記事です。広範囲に歩き回った築地川跡地、もう一度、その1に載せた地図を載せますね。
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南支川
暁橋から先の「備前橋」「門跡橋」「小田原橋」です。
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備前橋(びぜんはし)
備前橋は築地本願寺のすぐ脇の道(祝橋と同じ通りの築地本願寺交差点に通じている道路)と築地川の交点にかつて架けられていた橋です。川は埋立てられ、橋は撤去されています。跡地に橋銘板が残されています。
橋の名称は、橋の辺に備前岡山藩邸があったことに由来しています。震災復興橋梁の一つ。築地川南支川に架かる橋で、小田原町(現・築地七丁目)から築地二、三丁目の間へ渡されていました。震災前は橋長14メートル、幅
4メートルの木橋だったが、震災後に橋長33メートル、幅17メートルの鈑桁橋に改架されました。大正14(1925)年5月に竣工しました。
備前橋の上流部分の水路は昭和40(1965)年1月に埋立てられ、平成元年(1989年)4月に区立築地川公園として開園。また、下流部分も昭和62年に埋立てられ、区営駐車場、駐輪場となりました。
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門跡橋(もんぜきはし)
門跡橋は、築地川と晴海通りの交点に架けられていた橋です。晴海通りは震災復興で整備された幹線道路(第4号線:当時は歌舞伎通)ですので、この橋もその時架橋されたようです。親柱が1基移設保存されています。晴海通りはよく歩いていたのですが、この親柱があることに全く気が付いていませんでした。
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小田原橋
築地川東支川と南支川が交差する場所に小田原橋はありました。小田原というのはかつての地名(江戸時代から昭和7年(1932)まで「南小田原町」、同41年まで「小田原町」と呼ばれていた)に由来しています。その町名は、小田原の石工善左衛門が、江戸城築城などのための石材の荷揚場として慶長年間に当地を拝領したことに由来すると伝えられています。
築地川は高速道路転用などの理由で橋の上流側は昭和 54年、下流側は同58年から埋め立てが始まり、平成10(1998)年5月に東支川の築地市場に面した箇所も埋め立てられました。小田原橋が撤去されたのは平成25年ですが、建物に橋の名前が残されています。小田原橋の親柱1基は、小田原市が譲り受けられて保存されているそうです。
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中央区まちかど展示館のサイトに当時の写真が載っていて過去に遡れます。ぜひご覧下さい。
築地は埋立地。江戸時代に海が埋め残されてできた(と思われる)築地川。当初は水運(舟運)利用のためではなかったようですが、関東大震災がきっかけで大きな変化を遂げます。震災復興により幅員を広げ、楓川・築地川連絡運河が開通して日本橋から築地への水運が便利になります。これは、震災により日本橋魚河岸や京橋大根河岸を代表とする市場群が全滅したため、復興計画に中央市場移転計画が盛り込まれていたからのようです。帝都復興史の「各河川運河の改修計画要旨」によれば、(十)築地川楓川連絡の中に「築地川から京橋及日本橋方面への連絡は従来も頗(すこぶ)る重要なるものであったが、今後汐留駅及復興計画に依る中央市場完成の暁に於ては益々貨物増加を見るべきを以て、之に備へるため築地川及び楓川を改修するのみならず両川を連絡する新航路を開削して将来の発展に備ふ。」と書かれています。汐留駅復興計画も中央市場完成計画も既にあるので、将来のための整備だったのでしょう。
しかし、復興事業での幹線道路の整備、戦後の高度成長、東京オリンピックの決定、モータリゼーションへの進展等により、高速道路が整備され川は埋め立てられました。大正末期~昭和初期の計画通りに時代は進まなかった、ということになるのですかね。主に戦争が原因で。戦争の瓦礫処理で川が次々に埋立てられ無くなるなんて、きっと誰も想定していなかったでしょうから。
今でも残っている川はありますがこんな外れだし、わざわざ見に来る人もいないのかなってちょっと寂しくなりますね。築地には以前川がたくさんあって、それが高速道路として利用されたこと、川があった場所には何かしら跡が残されていること、高速道路やもと川の公園を見かけたら思い出して下さい。
見出し写真は、浜離宮恩賜庭園で撮影した築地川と、その先に見える隅田川に架かる築地大橋です。
築地市場跡地はこれから生まれ変わるそうですが、大規模イベント会場などにはならないで欲しかったのが個人的な意見。完成する年はもうイベントに足を運ぶような元気はありませんのでほぼ行くことはないでしょう。けれどこの地にそんなにぎやかな建物などなくていいと思います。大規模な何かを作るというのがいまの再開発計画のスタンダードなのかもしれないけれど、誰が欲しているんだろう。