埋め立てられた川と橋があった場所(楓川・築地川連絡運河)
楓川と築地川を結んでいた掘割は、関東大震災の復興事業の一環で開削されたものでした。少し離れていた楓川と築地川が結ばれることで、日本橋から築地方面への水運が利便性を増しました。その30年後には高速道路用地となって干拓され、船ではなく車が通る道路に転換されます。運河としては短命だったかもしれませんが、瓦礫処理で埋立てられその形跡すらなくなった水路とは違って、高速道路の道筋でその姿を見ることができます。架けられていた橋も陸橋としてすべて残っています。
今の地図だとこの辺です。
新金橋(しんかねはし)
楓川・築地川連絡運河の一番北に架けられています。震災復興事業の補助線街路工事に伴い架橋されました。三つ橋跡地のすぐ近く、首都高速の京橋入口のある道路上に架けられています。新京橋交差点もこの延長線上です。銀座一丁目のコージーコーナーとコナミの間の道路の先と言った方がわかりやすいでしょうか。新富町(川の東側)と金六町(川の西側)を結ぶことから命名されたそうです。
上の蜊河岸の史跡看板に書かれてある川と橋の図を見ていて思ったのですが、新金橋は三十間堀川と京橋川の分流点が修正された時に撤去された真福寺橋とほぼ同じ位置なのでは?位置情報が正しいかはわかりませんが、ウィキペディアに載っている橋の位置がほぼ一緒です。
新富橋(しんとみはし)
震災復興事業で新たに架けられた橋です。橋の上に楓川新富橋公園が整備されています。(ここは楓川じゃなかったのに何故そんな名前に?)
新富橋交差点(橋の東詰)に大野屋總本店があります。安永年間創業の和装雑貨の老舗で嘉永2年(1849年)現在の新富町に移転したそうです。
あまりに気になったので別の日に足を運んで近くで見ました。ピーポくん、足袋穿いてます。
大野屋總本店が店を構えていたこの辺りの近くにかつて新富座という歌舞伎劇場があり、関東大震災で焼失したそうですが再建されませんでした。跡地には現在京橋税務署があります。
三吉橋(みよしはし)
三吉橋はこの連絡運河が開削された時に架けられた橋です。2つの川が繋がって川がTの字型になった時に特徴的な三叉の橋が架けられました。
川の名前の記事を書いた時に復興局の当時の資料を確認していますが、最初からいまの三吉橋のような三叉の橋が計画されていたのかはその資料からは読み取れませんでした。計画上は「運河改修に伴い架設する橋梁」の中に「築地川 合引橋」と書かれてあったからです。
合引橋は、南詰が中央区役所がある築地一丁目、北詰が旧新富町五丁目に架けられていた築地川の橋でした。三吉橋の三叉の一方向にあたります。今でいうと下の写真の左辺りで、手前の横断歩道から真正面にある中央区役所方向に一直線に架けられていました。
連絡水路の開削とそれに伴う橋梁工事で、この橋が三吉橋に架け替えられているようです。三吉橋を取り上げている記事を見ると後ろに(合引橋)と書いてあるものも見受けられます。
うまく伝わるかわかりませんが、とりあえずぐるっと一周してみます。
上から撮影されている写真も探せば出てきますので、気になる方はぜひ川がある時代の姿を見てみて下さい。
石碑にあるとおり、橋は平成4・5年にかけて改修されているようです。あちこちに立っている鈴蘭燈のおかげか、この辺りの景観は今でも昭和初期のレトロな感じが残っています。区役所は住んでいないと案外所在地がわからないものですね。千代田区役所も中央区役所も橋巡りで場所を把握しました。
新富町駅付近は初回の橋巡り以来何度も取材で訪れました。利用する機会がほとんどなかった新富町駅は、有楽町線が新木場まで延伸される前の5輛編成時代の終着駅として把握していた程度でした。この橋のおかげですっかり土地勘のある場所に。新富町という駅名も、計画段階の仮駅名は明石町で、地元の要望が反映されたとか。この辺の町名は今は新富(町は付かない)という名前に変わりましたが、昔の町名が付いた駅名だということもこの自由研究(笑)で把握しました。もと川の橋巡りは予想以上にいろんな情報を得られます。
見出し画像は中央区立京橋公園の角印をかたどった公園名の石です。こういうセンスは大好きです。