埋め立てられた川と橋があった場所番外編:次の橋に行く前に
次の川、もうほぼ記事を書き終えているのですが、そちらを公開する前にちょっと川の名前の話をしたいと思います。
今はインターネットでいろんな情報を得られる時代です。なので私もネット検索に頼りっぱなしなのですが、検索結果に出てきた情報に複数の解釈があり、どれが正しいのか判断に困る事があります。
次の記事の運河の名前もそうです。「楓川・築地川連絡運河」と「築地川・楓川連絡運河」の両方の名前が存在するのです。どっちが前でどっちが後ろなのか。北から南なのか、支川が複数あり規模の大きい川が先なのか。そもそも、正式な名前はあるのか。
復興計画時はどう呼ばれていたんだろうと気になり深掘りしていたら、国立国会図書館デジタルコレクションで当時の資料「帝都復興事業概要」がWeb閲覧可能なことを知りました。素晴らしい!
それによると、運河に「新鑿」(しんさく)と示されている新たに開削された運河は「築地川楓川連絡」と書かれていました。新鑿の「鑿」は工具の「のみ」の事でもありますが「掘る、穴を空ける、削る」という意味もあるようですので、開削のことだと思います。
区域には「金六町先櫻川ヨリ木挽町一丁目地先築地川ニ至ル」と書いてあります。大正13年のこの資料には具体的な橋の名前は書かれていないのですが、昭和3年12月の資料「復興事業進捗状況」には事業が着手された後だからかもう少し詳しく情報が載っています。「運河改修ニ伴ヒ架設する橋梁」に「築地川楓川連絡」の橋として「新富橋」が書かれています。
「新金橋」は架設された橋梁には並んでいませんが、復興事業の補助線に付随して架橋されたという情報を見たので調べてみると「補助線街路工事工程表」の中に「銀座一丁目ヨリ新湊町一丁目に至ル」道路があり幅員15mとあるのでおそらくこの街路と思います。資料の後ろのほうに橋梁工事計画もあるのですが、この中には新金橋はないので、名前が決まっていない橋として載っているのかもしれません。
そんなわけでこの運河の名前を「築地川・楓川連絡運河」にしよう、そう思って記事を書き始めていたら、三吉橋の銀座側のたもとにある史跡の石碑にはしっかりと「楓川・築地川連絡運河」と書かれていました。中央区立図書館発行の郷土室だよりも「楓川・築地川連絡運河」です。
検索した結果の感じから、復興計画の段階では築地川楓川連絡運河と呼ばれていたのに、開削後以降は楓川築地川連絡運河の呼び方が定着したのではないか(そう呼ぶ人が多かったんではないか、もしくは伝えられていったんじゃないか)と私は思いました。
どっちも多分正解。
ここは中央区の表示に従い、楓川・築地川連絡運河でいくことにします。
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