埋め立てられた川と橋があった場所(東堀留川)
続いて東堀留川です。
東堀留川・西堀留川のことを調べていたら、これらの川が日本橋川と合流していた地点は以前は川ではなく海であり、旧石神井川の河口部で、小舟町辺りで海に注いでいたという情報が。この2つの川はその名残りなんだそうです。
石神井川は、東京都小平市花小金井南町に源を発し東京都北部を東へ流れて北区堀船三丁目で隅田川に合流する河川です。石神井川がどこをどんな風に流れてどこに合流していたか今回まで詳しく知りませんでした。地図上では王子の先で隅田川に流れ込んでいますが(下の地図で王子駅近くをウネウネ横切っている川が石神井川です)、これは慶長10年(1605年)に旧石神井川の川筋を変更したためだそうです。もとの川筋は不忍池のほうから南下していたそうで、下流部周辺の市街地が洪水の被害にあうことも多く、その対策のためだったらしいです。
お玉ヶ池跡地です(岩本町)
さて、江戸後期の古地図はこんな感じです。橋は3つ架けられていました。
今回は日本橋川に近いほう、というか、前回の荒布橋から小網町一丁目通りを歩いてたどり着く「思案橋」から始めます。
現在の地図に置き換えて、川と橋のあった場所はこうだったと思われます。萬橋だけ震災前後で位置が違いますが、これは震災前の位置です。
思案橋(しあんはし)
西堀留川にも思案橋と命名された橋があったと前の記事に書きました。それはこの先に元吉原があり、行こうかどうしようかと思案したからだと言われていますが、その橋を通り過ぎた先にある橋ではもうどうにでもなれという気持ちでわざくれる(やけになる、自暴自棄になる)から、隣の橋が「思案橋」の時はこちらは「わざくれ橋」と言われていたそうです。面白すぎます。
この橋は周辺の環境が変わることにより「わざくれ橋」から「思案橋」、その後「小網橋」と変わっていったようです。元吉原は明暦2年に移転を命じられ、明暦3年1月の大火で移転が遅れるものの6月には浅草裏の日本堤に移転が完了します。移転後の元吉原付近には中村座をはじめ歌舞伎の芝居小屋が建ったり、陰間茶屋が増えていったりしながら、花街となっていったようです。吉原が移転しても、街の様相はあまり変わらなかったということになるかと思います。芝居小屋と遊郭があったので、どちらに行こうか悩んだことが「思案橋」の由来になっていると書いてあるものを多数見かけました。行こか戻ろか悩むんじゃなくて、どっちに行くか悩んだとは。
その後、芝居小屋もなくなったので悩む必要が無くなって町名の「小網橋」になったらしいです。
この川は戦後の瓦礫処理の対象となり、掘割は全て埋め立てられます。「思案橋」跡地は小網町児童遊園になっています。大人の事情で悩んでいた場所が、いまや児童遊園って、昔の人は想像できなかったでしょうね。
ちなみにこのすぐ裏にパワースポットと言われている神社があります。小網町なんだから小網神社だろってすぐわかりました?(笑)
この神社、強運厄除で広まったのか、普段から人がたくさんいます。平日だろうが朝早かろうがお構いなし。
親父橋・親仁橋・親慈橋(おやじはし)
そのまま川筋通りに先に進むと大きな通りにぶつかります。それが甚右衛門通り?と言われていた人形町に通じる道です。日本橋のこの辺りは元吉原の一部だったそうで、親父と呼ばれた吉原の創設者の庄司甚右衛門が架けた橋だったことが名前の由来のようです。橋名の漢字はその時々で変わっています。
上の写真のセブンイレブンの横の道を進むと、中央区立堀留児童公園に到着します。ここに東堀留川(堀江町入堀)の説明があります。
上の写真で萬橋の位置を見比べてみて下さい。
万橋・萬橋(よろずはし)
前の説明によれば、萬橋は関東大震災前と震災後では位置が違うようです。
震災前の場所は上の写真の建物の先(同区画内)のようですが、震災後は公園の手前の道路に架けられていました。震災後の橋の場所は下の写真です。
橋の名前は「堺橋」→「和國(わくに)橋」→「萬橋」と変わったようです。名前の由来はわかりません。
公園の先、この辺りが東堀留川の堀留だった場所です。
見出し画像は人形町をウロウロしているときに見つけた富士ビルさんの壁に掲示されていた看板です。
右側から撮影して左端が見出し画像です。
おまけ。人形町で見つけた屋敷跡です。
西郷隆盛屋敷跡
谷崎潤一郎生誕の地