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竪川と亀戸

竪川(たてかわ)は東京都に存在する川です。首都高速7号小松川線にほとんど川筋が隠れてしまっています。「もと川」探検を始めた頃から書いているとおり、高速道路建設を早期に行うために用地を河川や公有地の上に確保したためでしょう。とはいえこの川はwikipediaにもある通り、大横川との交点から東側は横十間川との交点を除きほぼ暗渠になっています。

私は猿田彦珈琲が好きでカメイドクロック(通称カメクロ)のショップにちょくちょく行っておりまして、その度に通るのが緑道公園です。ここ、もともとは都電砂町線が走っていたらしく、竪川人道橋だった道の近くにこんな説明とモニュメントがあります。(この記事の写真は今年の5月~6月に撮ったものですが、一部再取材して足しています。)

橋の記憶
正確には、橋と川と都電の記憶ですね

竪川専用橋と堅川人道橋の歴史

 かつてこの場所には、路面電車が走るための『竪川専用橋』が水神森~大島間の開通に合わせ、大正十年一月より架設されていた。
 当初の運営は大正二年十月に設立された城東電気軌道(株)で、昭和十七年二月に東京市営、同十八年七月に都営となった。ところが、昭和二十年の大空襲により甚大な被害を受けた。しかし復興に努め、昭和二十四年には区内全域が開通した。
 『チンチン電車』と呼ばれて親しまれ、便利だった都電も昭和三十年代の高度経済成長政策の頃から、自動車交通の急激な発達により道路が渋滞し、輸送力低下による赤字決算の連続となった。その結果、昭和四十七年、区内全線が廃止された。
 そして、昭和五十年、この橋は歩行者専用橋として改修され『竪川人道橋』と呼ばれるようになり、同五十四年、橋の南北の軌道敷は緑道公園に生まれ変わった。

 以来、この橋は平成7年の景観整備工事にて都電をモチーフに修景され、地域の歴史を伝えるモニュメンタルな橋として地域に親しまれてきたが、老朽化が進んできたこともあり、竪川河川敷公園の大規模改修に合わせ一体整備されることとなり、平成23年に橋は撤去され、現在の姿となっている。

 なお、モニュメントのレールの一部は『25系統』の亀戸九丁目で使われていたものを再使用しており、車輪は当時の写真等を参考にオブジェとしてデザインされたものである。
                       令和2年 江東区土木部

江東区の説明板より
大島緑道公園
写真を撮影したのが6月なので選挙看板が出てます
新大橋通りの大島緑道公園入口に
これがあります リスがかわいい
こちらは逆側、亀戸方向の亀戸緑道公園
カメイドクロックは右手前方にあります

竪川は河川敷公園として整備されています。

写真を撮影したのが平日朝の8時台
なのでひとけがあまりありません
高架橋は首都高小松川線です
後で橋を撮ってきました
こんな風に渡れる橋です
この寛永通宝のオブジェ、なんの意味が?
明治通りと竪川の交差に架けられている「五の橋」
橋銘板、何で「の」は「之」でなくひらながなんでしょ
北詰は全部ひらがなの「ごのはし」でした

「三ツ目通り」とか「四ツ目通り」の由来も、橋巡りをしていて知ったのですがこの竪川の橋に因んでいます。竪川は江戸時代に開削され、六つの橋が架けられました。隅田川に近いほうから順に番号が振られ、一ツ目之橋、二ツ目之橋、三ツ目之橋、四ツ目之橋・・・という風に名付けられたそうです。通りの名前も後でその橋と同じ名前が付けられたとか。(一の橋通り、清澄通り、明治通りなど、違う名前の通りに変わったものもあります。)
ただし「五之橋」「六之橋」は一度撤去されているそうです。江東区の資料によると、明暦の大火後に江戸市街地の開発が進んだ際、本所深川に旗本・御家人の武家地を作ろうとして宅地を造成するための資材の運搬や武家地成立後の流通路として開削が始まっているそうです。ただし延宝8年の高潮による被害があり、排水も悪く武家地に適さないとされ開発を断念し、亀戸のような東の外れは往来も少なく不要と見なされて撤去されているようです。その後この場所には渡し場ができます。元禄2年(1689年)に再び本所深川の開発が再開されており、その時に再び橋が架けられたと思われます。

竪川河川敷公園を西に向かって進んでいくと五之橋の下を通るのですが、その手前にあったのが三代目歌川豊国の生地の案内表示。そして橋の下(両側)と橋の横に沿って現れる豊国ギャラリーです。何度か通ったことがあるはずなのにこの散歩の日まで気がつきませんでした。

五之橋の下です
五之橋を通り過ぎたところです
地上に上がって橋のたもとから見たところ

それにしても、墨田区立川(たてかわ)が「竪」の文字を使っていないのは、戦後当用漢字で制限されていた頃に住居表示制度が実施され、漢字が使用できなかったせいだったとは。

町名の由来は、街の北側の流れる竪川に因み、元は竪川町と称した。1966年(昭和41年)の住居表示制度の実施にあたり、「竪」の字が当用漢字にないため、立川と改称された。

Wikipedia 「立川(墨田区)」より

1981年に常用漢字が告示されて当用漢字は廃止され、制限は緩くなったようですが、当用漢字のwiki説明を読んでいたら日本語の言語改革論議がこれまでも多数行われていて一時はローマ字化も計画されたとか(制定されてたら今どんな表記になったのか、怖っ・・・)。ネット検索してると、本来の話題とは関係ない情報まで飛ばしてもらえるから面白いです。その分、記事が完成するのにも倍以上時間がかかるのですが(笑)

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