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埋め立てられた川と橋があった場所(築地川その4)

実は築地川、まだ終わっていません。今回は東支川です。

東支川

采女橋から先の「北門橋」「市場橋」「海幸橋」です。

これは中央区立郷土資料館の床
昭和25年当時の地図なんだそうです
東支線を撮影

北門橋(ほくもんはし)/三ノ橋(さんのはし)

采女橋の先で隅田川の方向に分流する場所にある橋です。橋の名前を「きたもん」と読むのか「ほくもん」と読むのかで迷いましたが、中央区まちかど展示館では「ほくもんばし」と読み方が書いてありましたのでこちらに従うことにします。北を「ほく」と読むなら南も「なん」だろうということでその3に出てきた橋も「なんもんはし」に直しています。

北門橋の位置は、現在の都心環状線銀座料金所のすぐ脇の私道です。足を運んでみると、海軍兵学寮跡と海軍軍医学校跡の石碑があります。

海軍兵学寮
1869年10月22日(明治2年9月18日)、前身の海軍操練所が東京・築地の元芸州蔵屋敷内に創立開設された。1870年12月25日(明治3年11月4日)、海軍兵学寮と改称し、1876年(明治9年)、改称されて海軍兵学校が開校。1888年(明治21年)に呉市の呉鎮守府に近接した広島県の安芸郡江田島町(現在の江田島市)に移転した。

Wikipedia:海軍兵学校より抜粋

海軍軍医学校
1872(明治5)年、東京・築地にあった海軍病院に「海軍病院学舎」を増設し、11名の医師にイギリスから招聘したウィリアム・アンダーソン医学博士による医術の手ほどきをさせたのがルーツ。その後「海軍医学校」と改称され芝山(現在の港区西新橋)へ移転。1894年(明治27年)全生徒・候補生が卒業し医学校は廃止。日露戦争を目前に1894年4月に軍医学校を再設置、1908(明治41年)に築地に移転。その隣接地に、三井家の寄付と海軍の用地の無償貸与により、東京市営の「築地施療病院」が開院。ここでの診療は「海軍軍医学校」が行った。軍医学校、病院とも震災で被災したのち、「海軍参考館」の跡地一帯に再建された。「海軍軍医学校」は1929(昭和4)年に竣工。病院は1931(昭和6)年に竣工し「東京市立築地病院」となった。
大東亜戦争終結後1945年(昭和20年)11月1日で閉校。跡地は建物を進駐軍に接収された聖路加国際病院が一時移転(1955年返還され現在地に戻る)、その後国のがん対策のため旧海軍軍医学校を改装して1962年1月1日に国立がんセンター(現在の国立がん研究センター中央病院)が設置された。

Wikipediaや他の資料を参考にまとめたもの

この辺りの昔の写真を確認したくて探しているうちに、明治42年にこの辺りには海軍参考館というミュージアム的建物が新設されて日露戦争の戦利品等が展示されていたことがわかりました。それが北門橋を渡った先にあったので興味を持って見ていたのですが、その建物は関東大震災で倒壊。この場所には後に(東京市立)築地病院が建てられています。
築地病院のWikipediaを読んで違和感があったので調べ直したら、上の海軍軍医学校の隣地に明治44年3月28日に開院した東京市立築地施療病院のことでした。関東大震災で消失し、震災復旧費予算で再建されています。施療病院からほかの市立病院と同じ一般病院にかわり築地病院と改称されたそうです。(市立普通病院の一つで、東京市住民で医薬を得る資力のない傷病者を無料で取り扱っていたそうです。)

東京市の保健事業(1935年)より一部抜粋
所蔵:東京都立中央図書館
上の写真の一部を拡大

注目すべきは上の写真の橋の柵というか欄干の部分です。よく似た形が下の写真にも写っています。ここがもと橋で、少し傾斜があったから柵と石柱にも傾斜があるのではないでしょうか。

石碑の間から覗いたところ
親柱?っぽい石があるのですが
柵っぽいものの切断跡に見えます


市場橋(いちばはし)

続いて市場橋。交差点に名前が残されています。

手前の道路は新大橋通りです。東支川はこの横断歩道から国立がんセンター中央病院(左側の建物)との境目くらいまでの幅員だったと思われます。市場橋は新大橋通りのこの辺りに架けられていたと思われますが撤去されています。

市場橋の名前が残る市場橋公園とその中にある「市場橋公園内公衆便所」


海幸橋(かいこうはし)

平成14年まで残されていたアーチ橋です。橋の説明を文字に起こしました。

海幸橋

 海幸橋は、昭和2年に旧築地川東支川の隅田川河口部に創架された鋼下路アーチ橋です。大正12年の関東大震災で日本橋にあった魚市場が全焼してのち、築地に移転しましたが、これに先立って築地市場の入口に新しく架橋された橋でした。

 橋梁設計は東京市道路局で、築地川東支川は平成7年に埋め立てられ、橋本体は同14年に撤去されました。しかし、鋼鉄製の親柱2基と石造親柱2基はそのまま記念物として現地に保存されることになりました。

 鋼鉄製親柱2基は破損した部材をもと通りに修復し、塗装も創架当時の濃緑色に戻してあります。この鋼鉄製の親柱のデザインと4基の配置は、日本ではめずらしいオランダのアムステルダム派のデザインの特徴をもっており、点対称に2基ずつ配置されているめずらしい構造です。この橋の親柱は昭和初期の橋梁デザインを伝える貴重な近代土木遺産として区民有形文化財に登録されています。

中央区環境土木部
中央区教育委員会

海幸橋の史跡案内板
保存されている鋼鉄製の親柱その1
保存されている鋼鉄製の親柱その2
これ、石造の親柱かな?と思って撮影
石造の親柱もう1つは現在は残ってないようです

築地市場にはいくつか門があり、海幸橋の先には海幸橋門がありました。

海幸橋の袂にあるのが波除神社。古くからあります。

波除神社

かつて築地市場には魚河岸水神社 遥拝所があり、そこに「旗山」と書かれた大きな石碑が立っていました。この場所は江戸時代松平定信公の下屋敷で浴恩園という庭園がありました。明治維新後は大名屋敷は明治政府に接収され、この辺りは海軍用地となり、浴恩園内の築山に「海軍卿の旗」が掲げられた為「旗山」と呼ばれ、 のちに「日本海軍発祥の地」として記念碑が建立されたそうです。築地市場の営業中は水神社に自由に出入りできたそうですが、移転が決まり、解体が始まってからは入れなくなり、旗山碑は見ることができなくなっています。魚河岸水神社は、豊洲市場移転後、豊洲に遷座しているそうです。

安芸(安藝)橋(あきはし)/波除橋とも

昭和には撤去されているようですが、東支川の隅田川下流にありました。江戸時代に安芸広島藩の松平安芸守の下屋敷があったらしいのでそれが由来と思われます。

その5に続く。









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