
いつかのきみへの橋渡り
橋づくしの記事に、ついでのように書いてしまった橋にまつわる小説「いつかのきみへ」。どうせだったら、もっと橋に興味を持ってもらおうと、自前の橋写真で物語の舞台となる橋を渡りつないでみたいと思います。(今回、追加取材はありません。石島橋を渡った日までに撮りためた写真で記事を書いています。)
小説に出てくる順番に橋をご紹介します。だいたいの場所の地図を作りました。

清洲橋
隅田川に架けられている関東大震災復興橋梁。西岸は中央区日本橋中州、東岸は江東区清澄一丁目の清洲橋通りを繋げています。どこから見ても美しい橋。






亥之堀橋
大横川に架けられています。この橋をまっすぐ西に進むと、深川資料館や霊巌寺にたどり着きます。東京都現代美術館にもわりと近いです。
この橋の名前、今は大横川と統一された名称ですが昔は流域で川の呼び方が違っていたことが由来らしい。つまりこの辺は以前「亥の堀川」と呼ばれていたわけです。
大横川(おおよこがわ)は、東京都墨田区・江東区を流れる運河。かつては流域により亥の堀川(いのほりがわ)や大島川と呼ばれていたが、1965年の河川法改正により大横川に統一された。ただし、派流である大島川西支川、大島川東支川、大島川水門等は改称されていない。大横川南支川も存在する。かつて亥の堀と呼ばれていたのは小名木川から木場まで。




大富橋
大富橋は小名木川の三ツ目通り上に架けられている橋です。三ツ目通りの名前の由来は竪川に架けられている橋(三ツ目之橋)からきていて、この道路が整備されたのは震災復興時です。調べていくと大正8年12月14日に東京市公設市場として富川町市場というのが設立されている情報があり、その住所に「富川町一番地(大富橋際)」と書かれているんです。ということはこの時代には存在していたはず。おそらく震災復興で幹線道路の整備とともに昭和5年12月20日竣工されたようです。橋の名前の由来が書いてあるものはありませんでしたが、橋が架けられていた場所の当時の地名が北岸が富川町、南岸が東大工町だったのでそれにちなんでいるのでは?と勝手に想像しています。今の橋は平成8年に架け替えられています。



おそらく右が日本橋一丁目中地区再開発と
左が八重洲一丁目東B地区再開発と思われます
八幡橋
八幡橋は前にも何度か話題にしている、移設された旧弾正橋です。八幡堀遊歩道の中にあります。いまは陸橋になっていますが、元々ここには八幡堀(油堀の支川)がありました。富岡八幡宮の東隣にあるので八幡橋と名前が変わりました。人が渡れる現役の橋です。





現「弾正橋」については楓川(その2)で取り上げているのでよかったらどうぞ。
まつぼっくり橋(石島橋)
墨田区から江東区を流れる大横川は、下流近くで西に折れ曲がるのですが、この橋はその中間の位置にあります。この橋のあたりは昔大島川、もっと前には二十間川と言われていました。亥之堀橋で説明した通り、もともと流域で名前が違う川が1965年に大横川に統一されています。そのせいで大横川の流域は意外と広い?(長い?)のです。墨田区の上流のほうは親水公園になっていて、川っぽくなるのは首都高小松川線の錦糸町料金所あたりから下流です。橋は多分江戸時代からあったと思われますが、名前が書かれていないんです。現代の地図と重ねると位置も少し違うようです。
まつぼっくり仕様はいつからか不明ですが、昭和4年に震災復興で架け替えられており、今の橋は平成5年に架け替えられています。




江東区商店街連合会のサイトに、親柱は陶製で、作者は陶芸家の石井源三さん、コメントに「親柱に、松ぽっくり(区の木、黒松)を籠にぎっしり詰め込んだイメージを立体的に陶板でデザイン化。」「他に、親柱頭部には松葉模様の照明器具を取り付け、高欄には松葉をイメージしたデザインで透視効果を狙った。」と書かれていました。この松ぼっくりデザインは、区の木の黒松からきていたんですね。スッキリー。
永代橋
隅田川に架けられています。西岸は中央区新川一丁目、東岸は江東区佐賀と江東区永代で、永代通りを繋ぐ橋です。大正15年12月に震災復興橋梁として竣工されました。清洲橋と並んで震災復興事業で建設された橋梁の中心ともいえる存在です。







多分いまのライトアップと少し違うのでは
写真だけの簡単な記事にするつもりが、いつもの橋めぐりみたいになっちゃいました。見出し写真は、2023年11月の日本橋川巡りの日に、豊海橋側から撮影した永代橋&隅田川です。