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埋め立てられた川と橋があった場所(築地川その1)

ようやく築地川です。築地川は楓川同様、もとは海だった場所に陸地が造成された際に埋め残されてできた人工の水路だということです。本流は、現在は埋立てられている明石町ポンプ所あたりで隅田川から分流し、明石堀(現区立あかつき公園)を経て堺橋(現区立築地川公園内)で北に折れ、入船橋で西に折れ、三吉橋で南に折れ、大手門橋で東に折れ、唯一水路が現存する浜離宮恩賜庭園の東側で隅田川に合流する水路です。
暁橋〜堺橋間で分岐する南支川と、采女(うねめ)橋から分岐し南支川と合流する東支川もありました。つまり、築地地区は周囲を築地川という水路に囲まれていました。川といっても流れのない運河です。

Wikipediaによれば、築地という地名が「埋め立て地」という意味で、1657年(明暦3年)の明暦の大火で焼失した西本願寺(現在の築地本願寺)の代替地として佃島の住人によってこの土地が造成されたと書いてあります。築地本願寺は1679年に再建されていますが、築地川がいつどのようにできたかははっきりしていません。橋の数も場所も、時代により変化しているようです。

東京市の頃に作成された運河系統図をもとに築地川の位置を示します。運河が埋立てられる前の(昭和20年~25年頃の)航空写真に重ね合わせて川の位置を示すとこうなります。

築地川(本流・南支川・東支川)の場所
出典:地理院地図Vector
(年代別の写真:1945~1950年を加工)

上の航空写真を現在の地図に置き換え、さらに「もと川」「もと橋」の位置を示してみました。一部のもと川の川筋を水色で足しています。

出典:地理院地図Vector(淡色地図を加工)

上の地図には、撤去されて跡地の確認ができない橋は入れていません。
江戸時代の地図ではだいぶ橋の数は少ないようです。三吉橋が作られる前の「合引橋」、入船橋の近くの「軽子橋」、明石堀の分流点に「堺橋」、明石堀と隅田川の堺に「明石橋」、木挽町と築地の間の「萬年橋」、その先の「二之橋」(采女橋)、「仙台橋」、南支川に架かる「三之橋」(北門橋)、東支川の隅田川寄りの「安藝(安芸)橋」などがありました。

今回は本流(その1)です。楓川・築地川連絡運河の開削で設置された「三吉橋」は紹介済みですので、その隣の橋から時計回りにいきます。今回の区域は首都高速道路の建設のために1960年から埋立てが始まり、1965年までに工事が完了しています。干拓され川底がそのまま高速道路になっている所と公園に置き換わった所があります。
例によって橋のひらがなよみは、濁らない「はし」としています。

築地橋(つきじはし)

三吉橋のお隣の築地橋は平成通りに架けられています。築地川は干拓されて都心環状線の道路になっていますので、現在は陸橋です。この橋ができたのはおそらく明治初期ではないかと思われます(江戸時代の地図には出てこないけれど明治13年くらいの本には名前が出ている)。この辺り一帯は関東大震災の復興事業で区画整理されていて、この橋も震災の2年後の1925年に架け替えられています。いまの橋は1967年に架け替えられているそうです。

中央区役所(もとの京橋区役所)も見えます
橋の下。
この先にあるのは首都高速環状線の新富町出口

この橋を含む道路上を市電(都電)が走っていた時代があります。9系統と36系統です。9系統(渋谷駅前~浜町中ノ橋)は昭和42年12月で経路変更され、36系統(錦糸町駅前~築地)は昭和46年3月17日で廃止されています。関東大震災の記録で、市電に関わる焼失した26橋の橋梁の1つに築地橋が含まれていました。焼失ということは、焼け残った線路の下から川が見える状態だったのかもと、私がもと橋に興味を持った江東区の資料に載っていた黒亀橋の写真を思い出しました。


入船橋(いりふねはし)

都心環状線の新富町出口のすぐ近く、新大橋通りに架けられている橋です。入船川が存在した頃には橋がなかったのですが、震災復興で区画整備され、新設されました。当初は「開國橋」という名前だったようです。この近くにもともとあった「軽子橋」は消失したか撤去したか、区画整理後は消えています。

入船橋の上からもと川をみたところ。
橋の真横の川筋がカーブしている辺りに
広場があります。

そのまま川筋を追っていくと
駐車場があります
その先にはこんな塞がれた出口が。
ここは将来的に何かに使われるのでしょうか。

暁橋(あかつきはし)

上の出口の左手に広がるのが区立築地川公園です。築地川が埋め立てられて公園として整備されており、人々の憩いの場所になっています。築地川公園は平成元年に開園した公園ですが、わりと最近、2023年にリニューアルされているようです。(Google Mapのストリートビューで工事中のとか出てきます。)

ここに最初に訪れたのは実は6月で、
紫陽花が満開でした

暁橋の跡地の両側(築地川公園内)に橋銘板と史跡案内が立っています。

暁橋の記憶
 かつてこの場所には、築地川南支川が流れ、震災復興橋梁の一つであるラーメン橋台橋構造の暁橋が架かっていました。
 道路建設の都市計画決定に伴って、昭和46年(1971)に築地川は埋め立てられ、その後昭和60年(1985)に暁橋は撤去されました。
 旧暁橋の橋銘板は、平成元年(1989)に開園した区立築地川公園の入口に設置されて以来、平成の時代を見守ってきました。

中央区 暁橋跡 史跡案内

震災復興橋梁の一つ。築地川に新架された橋長31.5メートル、幅15メートルの鈑桁橋で、昭和2年(1927)3月に竣工しました。
 京橋区築地二丁目(現・三丁目)から明石町聖路加病院わきへ渡されていました。
 戦後、首都高速道路の建設のために、築地川が埋立てられ、橋は昭和60年に撤去されました。

中央区 暁橋跡  史跡案内

堺橋(さかいはし)

築地川公園は入船橋~暁橋~堺橋~備前橋の間の流域を使った横に長い公園ですが、堺橋の親柱もこの公園内に残っています。写真は親柱1つですけどちゃんと2個存在します。
この橋から川筋が分かれ、隅田川の方向に進みます。

これは11月に撮影したもの
こっちは6月撮影
11月は土汚れが落ちてきれいになってますね

 堺橋または境橋。震災復興橋梁の一つ。築地川に架かる橋で、小田原町(現・築地七丁目)から明石町へ渡されていました。震災前は橋長5.5メートル、幅4メートルの木橋であったが、震災後に橋長25メートル、幅8メートルの鈑桁橋として改築され、昭和3年(1928)7月に竣工しました。
 築地川(明石堀とも呼ばれた)は、堺橋の先で分流し、南への水路が築地
川南支川となり、北へ曲がる本流は合(相)引川とも呼ばれていました。この橋を境にして築地川の川筋が分かれていました。
 昭和46年(1971)、首都高速道路の建設のため、築地川の埋立てに伴い撤去されました。

堺橋跡 史跡案内


南明橋(なんめいはし)

震災復興で新しく架けられた橋です。当時の資料には「新榮橋」と名前が書いてありました。途中で橋の名前が変わったのかもしれないですね。南明橋は現在の慰留地中央通り上に架けられていた橋です。ちょうどいい写真がなかったので、その近くで撮影した写真を使います。

慰留地中央通りを隔てた
あかつき公園冒険広場

この近くに立てられた、慶應義塾発祥の地 記念碑

この辺に南明橋があったという目印がないかとしばらく探しましたが、あることに気が付きました。あかつき公園内にある公衆トイレの名前が「元南明橋際公衆便所」でした。まさかトイレの名前に残すとは。

明石堀(あかしぼり)

明石堀は埋立てられ、区立あかつき公園になっています。
あかつき公園の案内にある公園の形が、明石堀そのまんまです。

出典:地理院地図Vector
(年代別の写真:1945~1950年を加工)
撮影:2024年11月
撮影:2024年6月(の平日)
誰もいない公園は寂しい
町の由来の記念碑
昭和46年11月に立てられたもののようです
上の記念碑の裏。
土台に南明橋と明石橋の名前が。
中央には南明橋の震災復興で新設された橋だということが
書いてあります


明石橋(あかしはし)

隅田川と明石堀の堺に架けられていた橋です。現在の明石町ポンプ所手前の交差点あたりが橋の跡地になります。

この辺りが渡船場だったことを示す
「月島の渡し」跡

次回は本流の亀井橋から反時計回りに回ります。

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