日向坂46-反復される視線と少女像
はじめまして、ぱてゼミ10期のshizukaです。
1)ボーカロイド音楽論のアドカレ記事で日向坂46?
ボーカロイド音楽論のリレーブログで日向坂46について書く、というのはあまりにも場違いに感じられるかもしれない。しかし、ぱてゼミはボーカロイド楽曲の分析を通して社会の通念を相対化していくことが多い講義であり、その議論はさまざまな場所で応用が可能なはずだ。また、講義内で参照されるのは、ボーカロイド楽曲だけではない。例えば、中盤のジェンダー論ゾーンでは、広瀬香美やドリカムの楽曲が取り上げられ、その恋愛至上/市場主義的な歌詞やフェミニズム的な側面についての分析がなされていく。この記事を通して、ぱてゼミの議論の間口の広さ、応用可能性の高さを感じていただけたら幸いだ。
2)日向坂46とは
秋元康プロデュースの坂道シリーズに所属する女性アイドルグループ。「けやき坂46」からの改名を経て、2019年に「キュン」でデビュー。
3)「AKB48的なもの」とは
日向坂46はAKB48の楽曲への回帰の側面を持つのではないか、という考察を進めていきたい。ここでいう「AKB48的な楽曲」とは端的に言えば、「(男性だけというわけではないが)ファンの欲望を表象した無邪気な少女像」と「アイドルを見つめるファンの目線」の内包である。もちろんこの特徴はAKB48のすべての楽曲にあてはまる訳ではない。2010年代前半のAKB48楽曲の一部が持つ共通の傾向、くらいに捉えていただけたらと思う。
なお、ぱてゼミ中盤のジェンダー論ゾーンでは、いわゆる「男性オタク文化」では女性キャラクターの内面や身体に関して男性の欲望が表象されていることが多いため、そこにはほんものの女性の内面が不在であり、「見ることによる搾取」がおこなわれているという問題点が指摘されていた。後半ではこの議論を援用していきたい。
4)AKB48と少女像、視線
まずはAKB48の人気曲、「ポニーテールとシュシュ」(2011)「Everyday,カチューシャ」(2012)について。いずれも奥手な男の子と、彼に思いを寄せられている女の子についてのラブソングで、男の子目線の楽曲になっている。「ポニーテール」「シュシュ」「カチューシャ」と少女の髪型に関する単語が登場するのが特徴だ。男の子は少女に思いを寄せるもそれを打ち明けることができぬまま彼女を見つめるが、彼女は彼の好意に気がついてはいないようである。また、「はしゃいでいる君は少女のままで」「無邪気な君」と歌詞のなかで少女の純粋無垢さが協調されている。これらのことから、
①奥手な男の子とその片思いの相手の女の子
②女の子の髪型や仕草の描写
③女の子は男の子の好意に気がついていない
④女の子の純粋無垢さ
をAKB48の一部の楽曲の特徴として挙げたい。
5)日向坂46と少女像、視線
一方、日向坂46の楽曲はどうだろう。「キュン」(2019)では、「ポニーテールに髪を束ねた『可愛い』君のその仕草に萌えちゃって[…]何もなかったようにさりげなく遠い場所から見守っていようそんな思いさえ気づいていない余計に君を抱きしめたくなったと」と、①奥手な男の子とその片思いの相手の女の子 ②女の子の髪型や仕草の描写 ③女の子は男の子の好意に気がついていない ④女の子の純粋無垢さ という先ほど挙げたAKB48の一部の楽曲の4つの特徴・構図を見事に反復している。なお、顔ではなく髪型や仕草について描写するのは、関数性が高い曲にするためではないだろうか。
1stアルバムのリード曲「アザトカワイイ」(2020)では、「また今日も君を見かけたよ[…]カーディガンの袖口を少しだけ長めにして両手でグーしているのがアザトカワイイ」と、女の子が無垢というよりは「狙っている」という点で先述してきた楽曲と異なるが、男子が遠くから女の子を見ていて、その仕草や表情に惑わされているという点は共通している。
もっとも顕著なのが「ソンナコトナイヨ」(2020)である。前髪を切りすぎてしまった女の子について、同じクラスと思われる男子の視点で「ハグしたくなるほどクラスで一番君が可愛いよ」と歌われている。①奥手な男の子とその片思いの相手の女の子 ②女の子の髪型や仕草の描写 ③女の子は男の子の好意に気がついていない ④女の子の純粋無垢さ(「君が拗ねたときのほっぺたみたいに」「子供っぽいよねママにも言われた」)という特徴にあてはまるのはもちろんのこと、同じコミュニティに属する女の子を、男の子が「可愛さ」で序列化するという外見主義的な思考が自然に表現されている。これは、AKB48「恋するフォーチュンクッキー」(2014)の「性格いいコがいいなんて男の子は言うけどルックスがアドヴァンテージ いつだって可愛いコが人気投票1位になる[…]私も見て」という歌詞で、容姿によるシビアな値踏みが表現されていたのと似ている。
日向坂46のこれら3曲はすべて、2020年12月現在5曲しか存在しないシングル表題曲/アルバムリード曲のなかに含まれる。具体例を挙げることはしないが、近年の乃木坂46、欅坂46(現櫻坂46)のシングル曲の歌詞にはこれほどの割合で、「見つめられる女の子と見つめる片思いの男子」の構図は登場していない。このことから、「日向坂46の楽曲は、坂道シリーズのなかでのAKB48的な楽曲への回帰」の側面があり、①奥手な男の子とその片思いの相手の女の子 ②女の子の髪型や仕草の描写 ③女の子は男の子の好意に気がついていない ④女の子の純粋無垢さ という特徴が、秋元康プロデュースの女性アイドルグループの楽曲のなかで反復されていると言えるのではないだろうか。(ただし、AKB48の楽曲では「女友達」くらいであった少年と少女との距離感が、日向坂46の楽曲では遠のいているようである。劇場を持つアイドルとメディアのなかのアイドル、など両者の違いについてさらに考えることができそう。)
6)「AKB48的なもの」が孕む問題について
これまでに取り上げた楽曲において、少女は「髪型や仕草などが可愛いが、どこか純粋無垢で男子の好意には気がついていない」存在として描かれていることが分かった。「可愛くて純粋無垢な少女」というのは、多くのファンが求めるアイドル像と合致する。その少女像=アイドル像が、女の子を見つめる男子の目線という歌詞の構造-アイドルを見つめるファンの視線とともに楽曲のなかで反復されているのだ。
坂道シリーズのなかでは熱愛報道後にグループを卒業してしまうメンバーも少なくないため、坂道グループのアイドルの恋愛は禁忌とみなされている部分があるのだろう。また、AKB48には恋愛禁止のルールがある。これが、アイドルに求められる「純粋無垢さ」でもある。
こうした「少女像=アイドル像」は、彼女たち自身ではなく、(男性だけというわけではないが)ファンの欲望の表象であろう。つまり、生身の人間である彼女たちを、ファンの望む内面をもつ偶像として再構成していることになる。ここに、「ほんとうの彼女たち」は不在かもしれない。それでも、握手会で会うことができる生身のアイドルとして、偶像のキャラクターから演繹した振る舞いを求められる。そこにある歪さ、搾取の構図が軽視されてはいまいか。また、日向坂46メンバーとの恋愛シミュレーションアプリ「ひな恋」がリリースされたばかりである。高校の同じクラスでアイドルの仕事をしている実在の女の子が、恋愛ゲームで「攻略」の対象になっていたらどうだろうか。
たしかに、水着でMVを撮影していた2010年代前半のAKB48がいびつな搾取の構造のなかにあるのは、決して良いことではないがある意味納得はできる。しかし、2019年にデビューした日向坂46となれば話は違う。「女性アイドルグループ」のイメージを塗り替えるような楽曲や衣装で注目された欅坂46とともに活動していたメンバーが、表題曲・リード曲のなかで、ファンの欲望を表象した少女イメージを反復「させられ」続けているのである。それこそいびつなことではないだろうか。
↑ 欅坂46「ガラスを割れ!」の衣装。女性アイドルグループでありながらスカートでなく肌の露出が極めて少ない。
7)おわりに~坂道シリーズ楽曲とアンチセクシズム・アンチラブソング
坂道シリーズは以上に記したような問題を抱えているが、ぱてゼミで取り上げられるようなアンチセクシュアルな感性が表現された楽曲も存在する。ライトなファンであるゆえ多くの楽曲を聞き込めておらず僭越だが、最後に2曲を紹介してこの記事を終えたい。
①けやき坂46(現日向坂46)「抱きしめてやる」(2019)
「男だからって我慢しないで わたしがちゃんと守ってあげるから」という歌詞で、「男性は強くあるべき、男性が女性を守るべき」というセクシズム的な(人を性で区別するような)通念に、力強くストレートに反発する楽曲。ただし、秋元康は先述のとおりジェンダー論等の視点でみると旧来的な性質を残す楽曲も日向坂46に提供し、そちらを表題曲に選んでいる。悲観的な考え方をするならば、彼はあくまで時代の気分を反映させたのであって、「真のメッセージ」などというものは不在なのかもしれない。そうだとすれば、言葉は何だか軽くて薄いものだ。
②櫻坂46「なぜ恋をしてこなかったんだろう」(2020)
ラブソングでありながら、「どいつもこいつもI LOVE YOU!ってまるで盛りのついた猫だ」と人間の恋愛を犬猫に重ねる鋭い表現が登場する。また、ひとつのまとまりのなかで一音だけ高音で跳ねるメロディが、一部のボカロ楽曲に通ずるものがあるような気がする。
分析・文章ともに拙い部分が多いなか、最後まで読んでくださってありがとうございました。わたしは、日向坂46のメンバーが物語の主人公のように力強く立ち現れる瞬間が好きです。ファンとアイドルの関係は根本的に見る者/見られるものである以上、メンバーが客体化を免れることはできないのかもしれないけれど、わたしにとって彼女たちはヒロインなのです。だからこそ、自分なりの欲望を持つライトな「おひさま」(日向坂46のファンの通称)としての葛藤と、魅力的でありながら歪さを残す「日向坂46というもの」へのささやかな愛憎とともに在りたいと思います。これがわたしにとって、「推しかたの倫理」を考えることでもあると信じています。