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【日記】#12 「普通」を考えてみる


みなさんこんばんは。

(おそらく)3日ぶりの投稿になります。ごまです。


今日は「普通」について考えたことを書いていこうと思います。


私自身、自分のこれからについて1年以上考えているわけですが、その中で「一般的には」「普通なら」といった「世間一般的にはこうだ」というあり方でいいのかと悩みつづけている印象があります。

私はもともと自分から進んで何かをするタイプではないし、人の目が怖いと思うことがよくあるので、「世間からの見え方」を気にせずこれからについて選択していきたいと思う一方で見え方に対する恐怖心も持っています。

うちの両親は基本的にはあまり介入をしてこないタイプの親なのできっと「やりたいと思うことをやりなさい」といってくれるとは思うのですが、自分に対する「よそ様からの見え方」は地元では「よそ様から見たうちの両親の教育方針」だったり、一言に「私という人物」の評判で終わらないことも最近になって感じることです。


まぁ、両親が私の人生のすべてを保証してくれるわけではないので、結局は自分の行動に責任をとれるのは自分自身だけですし、自分がどう生きていきたいのか、というところに着地すると思うのですが。


私は世間一般で使われる普通は、「各人の自分の中の常識が、その他の多くの他人も同じように考え(ていると思った)たために出来上がる概念」だと捉えています。

これは、流行りすたりの関係で偶然出来たり、社会の状況や教育から学ばれることが大きく影響することもあると考えてよいと考えました。

例えば戦時中ならば「戦争に行って国のために死ぬことが名誉である」とされていましたし、「小学校を卒業したら中学校へ入学する」こと、方言もこれに含まれてくるのではないのかなぁなんて。


こうやって考えていくと社会のあらゆるところに対して「なぜこうなんだろう」「なんでこうやって考えちゃうんだろう」と様々な事柄に対して疑問がわいてきます。

むしろ、そこに当たり前にあるものに関してこそ考えてみるべきなのかもしれません。

そしてその中で直感的に感じた「疑問」「ひっかかり」を大切にしていきたいですね。そういう時の直感は、結構な割合で本質を捉えているように感じます。「センター試験、答え変えたら変える前のがあっていた現象」を思い出しますね。笑

普通、当たり前について一度考えてみたら面白いかもしれません!