アファーマティブ・アクション-affirmative action-について、言葉は知っていても真剣に考えたことがなかったと気がついた
デンマークにいると、人種はもちろんだが、家族の形態も日本とは大いに違っている。道ゆく人の肌の色も身長も違うし、電動車椅子が原付バイクと同じ速さでビュンと走っている。この国では自転車はとても重要なポジションにいるので、歩行者はバイクに乗る人に叱られる。かなりの速さのバイクがビュンビュン走っている。つまり、交通常識も違う。ベビーカーに寝ている赤ちゃんがカフェの外ですやすやとしているのもアタリマエだ。
そんな背景を前提に、授業でaffirmative actionについて議論をする機会があった。30か国から集まる若者は、奨学金でここにきている人もいるが、自由を求めて軽い気持ちできている人もいる。家庭の経済事情も様々だ。「これこそがレイシズム」だという若者もいた。私も過去にはそう思っていたことがある。しかし、教育格差は親や祖父母より前の代からきているのだ。そんな急に追いつけるものではない。
日本ではあまりにも外国人が少ないので、差別の対象はどちらかというと、男性に対する女性であることが多かった。管理職や役員の●●%を女性にしよう、という話が一番わかりやすい。しかし国によっては、男女格差はもちろんのこと、人種・宗教・国ごとの階級制度、障害の有無、LGBT、、、様々な差別要因がある。なので、これまで差別してきたことを「なかったこと」にするために、一定数をマイノリティ枠にするものだ。「僕の方が能力があるのに、女性比率を高めるために管理職になれなかった」と嘆いていた男性もいるだろう。管理職になるのがステイタスだったならそれは悲しいことかもしれないが、日本や世界をみたら、必要なことだと理解できたのかもしれない。
私自身は、affirmative actionは大いに賛成である。絶対的貧困の国に住んでいる人たちにしてみれば、それどころか、生きることに精一杯なわけで、「そんなことで悩めるあなたは幸せね」と言われるかもしれない。
IPCにはインターナショナルスクール出身の若者も多い。ヒトのことはあまり言えないかもしれないが、恵まれている人にはそうでない人の気持ちはなかなか分からない。ましてや若い時は。大昔を振り返りながら、そう思った。
Philosophyの先生が「授業をろくに聞いていない生徒を腹立たしく思うのも事実だ。しかし、そんな生徒が4年後に『授業はあまり聞いていなかったのに、哲学に興味を持って、大学で専攻しました』と言ってくれたのが嬉しかった」と授業で話してくれた。
考え方はいろいろ変わる。inputが増えて、年齢を重ねれば、また違うものを見るだろう。
私は大して能力もないのだが、女性の活躍を推進する日本の方針があったので、今日まで楽しく生きてこれた。何かの形で恩返し(→恩送り)をしたいと思う。
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