失われし超大陸の起源は⁉️
【失われし超大陸の話はどこから?】
〜大人の寺子屋・樂學〜
ムー大陸、アトランティス大陸、レムリア大陸
スピリチュアル好き、オカルト好きな方には、
とても有名なお話であるが、そうしたお話が
何処から発せられた物なのかを調べる人は、
意外に少ない。
検索すれば、Wikipediaですぐに出て来る。
スピリチュアル界隈の人達は、
まるでそれが真実であったかの様に語るが
せめて、お話の起源についてくらいは
触れた上で『自論』を展開して頂きたい。
また、この他にも『パン大陸説提唱者』
なども存在し、ムー大陸説よりも古い
19世紀末の1880年に提唱されたもので
ムー大陸説は、このパン大陸説を模した物
ではないか?との説もある。
また、その他にも日本国内にては
『正統・竹内文書』の中でも
失われし超大陸のお話が記述されている。
では、失われし超大陸の様々な提唱を
見ていきましょう!
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《ムー大陸説提唱者》
英国陸軍大佐を詐称(英国陸軍に在籍の記録がない)していたアメリカ合衆国の作家、ジェームズ・チャーチワードによる説。
彼は『失われたムー大陸』(「The Lost Continent of Mu Motherland of Man」1926年、「The Lost Continent of Mu」1931年)等の一連の著作で、ムー大陸の環境や文化についても詳述している。
一連の著書によれば、かつて太平洋の中央部には、東西7,000キロメートル、南北5,000キロメートルにも渡る巨大なムー大陸があったと主張。大陸に住んでいた人口はおよそ6,000万人強、首都ヒラニプラにある王宮には太陽神の化身である帝王ラ・ムーが君臨し、政治や行政、宗教に至るまでのすべてを統治し、全文明を支配できるほどの高度な学問と文化、建築、航海の術を持っており、白人が支配者である超古代文明が繁栄していた。
しかしそれが神の怒りを買い、約1万2,000年前に巨大地震が発生して大陸中の火山が噴火し、さらに大津波が押し寄せて、ムー大陸は一夜にして海底に沈没したと主張した。
チャーチワードによれば、1868年(16歳)にインドに従軍し、現地のヒンドゥー教寺院の高僧が、寺院の門外不出の粘土板「ナーカル碑文」(Naacal tablets) を見せてくれたという。
それには、ムー大陸(チャーチワードによると発音はMOO)の記録が絵文字で彫られていた。
また、ウィリアム・ニーヴン (William Niven)なる米国の技師がメキシコで発見したという古代の石板からも、「ナーカル碑文」と同じ絵文字が記されていたという。
それらを含めて、種々の古代文献を挙げて、ムー大陸が実在した証拠としている。
さらに、チャーチワードは旧約聖書の『創世記』の物語はムー大陸滅亡の記録であると主張している。
しかしチャーチワードはそれら古代文献を翻訳した引用文しか発表せず原典自体は示していない。
その古代文献の中には、現在解読されていないイースター島の碑文(ラパヌイ文字またはロンゴロンゴ文字と呼ばれるもの)が含まれている。
やがて、チャーチワードの身分詐称が発覚すると、ムー大陸の記述があるとされた一次資料自体にも疑義が持たれるようになり、その信ぴょう性は低下する。
20世紀後半になって太平洋の海洋底探査が広く行われると、ムー大陸の存在を真っ向から否定するデータが次々と出てきた。
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《アトランティス大陸説提唱者》
『ティマイオス』
『ティマイオス』の冒頭でソクラテスが前日にソクラテスの家で開催した饗宴で語ったという 理想国家論が要約されるが、その内容はプラトンの『国家』とほぼ対応している。
そして、そのような理想国家がかつてアテナイに存在し、その敵対国家としてアトランティスの伝説が語られる。
アアフメス2世が即位した後の紀元前570-560年頃、ソロンは賢者としてエジプトのサイスの神殿に招かれた。
そこでソロンは、デウカリオンの洪水伝説で始まる人類の歴史の知識を披露し、古来より人類滅亡の危機は何度も起こっており、ギリシアでは度重なる水害により歴史の記録が何度も失われてしまったが、ナイル河によって守られているエジプトではそれよりも古い記録が完全に残っており、デウカリオン以前にも大洪水が何度も起こったことを指摘する。
その頃、ヘラクレスの柱(ジブラルタル海峡)の入り口の手前の外洋であるアトラスの海[† 5]にリビアとアジアを合わせたよりも広い、アトランティスという1個の巨大な島が存在し、大洋を取り巻く彼方の大陸との往来も、彼方の大陸とアトランティス島との間に存在するその他の島々を介して可能であった。
アトランティス島に成立した恐るべき国家は、ヘラクレスの境界内(地中海世界)を侵略し、エジプトよりも西のリビア全域と、テュレニアに至るまでのヨーロッパを支配した。
その中でギリシア人の諸都市国家はアテナイを総指揮として団結してアトランティスと戦い、既にアトランティスに支配された地域を開放し、エジプトを含めた諸国をアトランティスの脅威から未然に防いだ。
しかしやがて、大地震と洪水が起こり、一昼夜の内にアテナイ軍は皆大地に飲み込まれアトランティス等も海に没して消えたという。
そのため、島が沈んだ場所は浅い泥によって航行が妨げられていると語った。
ここでクリティアスは太古のアテナイとアトランティスの物語の簡単な紹介を終え、以降ティマイオスによる宇宙論へ対談の話題が移る。
『クリティアス』
作品の冒頭の記述から、この作品は先の『ティマイオス』の対話と同じ日に行われた続編にあたる対話であることが示唆されている。
ティマイオスにおける宇宙論に引き続き、今度はクリティアスがアテナイとアトランティスの物語を披露する。
アトランティス島の大地から生まれた原住民エウエノル(英語版)が、妻レウキッペーとの間にクレイトという娘を儲け、アトランティスの支配権を得た海神ポセイドンがクレイトと結ばれ、5組の双子が生まれた。
初代アトランティス王のアトラス、スペインのガデイラに面する地域の支配権を与えられたエウメロスことガデイロス、アンペレス、エウアイモン、ムネセウス、アウトクトン、エラシッポス、メストル 、アザエス、ディアプレペスで、彼らが10に分けられたアトランティス帝国各地の王家の先祖となったとされており、王家は神の血筋ということになる。
アクロポリスのあった中央の島は直径5スタディオン(約925m)で、その外側を幅1スタディオン(約185m)の環状海水路が取り囲み、その外側をそれぞれ幅2スタディオン(約370m)の内側の環状島と第2の環状海水路、それぞれ幅3スタディオン(約555m)の外側の環状島と第3の環状海水路が取り囲んでいた。
巨大な3つの港が外側の環状海水路に面した外側の陸地に設けられ、内外の環状水路には2つのドックが作られ、三段櫂の軍船が満ちていた。
中央島のアクロポリスには王宮が置かれていた。王宮の中央には王家の始祖10人が生まれた場所とされるクレイトとポセイドン両神を祀る神殿があり、5年または6年毎に10人の王はポセイドンの神殿に集まって会合を開き、牡牛をいけにえとしてポセイドンに捧げる祭事を行った。
内側の3つの島々に王族や神官、軍人などが暮らしていたのに対し、港が設けられた外側の陸地には一般市民の暮らす住宅地があり、港と市街地は世界各地からやって来た船舶と商人で満ち溢れ、昼夜を問わず賑わっていた。
アトランティス島は生活に必要な諸物資のほとんどを産する豊かな島で、オレイカルコスなどの地下鉱物資源、象などの野生動物や家畜、家畜の餌や木材となる草木、 ハーブなどの香料植物、葡萄、穀物、野菜、果実など、様々な自然の恵みの恩恵を受けていた。
島の南側の中央には一辺が3000スタディオン(約555km)、中央において海側からの幅が2000スタディオン(約370km)の広大な長方形の大平原が広がり、その外側を海面から聳える高い山々が取り囲んでいた。
平原は土木工事により長方形に整形され大運河に取り囲まれ、運河のおかげで年に二度の収穫を上げたほか、これらの運河を材木や季節の産物の輸送に使った。
平原は10スタディオン平方(約3.42km2)を単位とする6万の地区に分割され、平原全体で1万台の戦車と戦車用の馬12万頭と騎手12万人、戦車の無い馬12万頭とそれに騎乗する兵士6万人と御者6万人、重装歩兵12万人、弓兵12万人、投石兵12万人、軽装歩兵18万人、投槍兵18万人、1200艘の軍船のための24万人の水夫が招集できるように定められた。
山岳部もまたそれぞれの地区に分割され、軍役を負った。アトラス王の血統以外の他の9つの王家の支配する王国ではこれとは異なる軍備体制が敷かれた。
アトランティスの支配者達は、原住民との交配を繰り返す内に神性が薄まり、堕落してしまった。それを目にしたゼウスは天罰を下そうと考えた。
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《レムリア大陸説提唱者》
フィリップ・ラトリー・スクレーター(Philip Lutley Sclater FRS FRGS FZS FLS、1829年11月4日 - 1913年6月27日)は、イギリスの鳥類学者。
ロンドン動物学会の事務局長を1860年から42年間にわたって務めた。
アフリカのマダガスカル島にはキツネザルが生息しており、この仲間は世界中でここからしか知られていない。
しかし化石種がインドから発見されており、また近縁の原猿類はこの島を挟んでアフリカ中部と東南アジアのマレー半島・インドネシアにのみ生息する。
このようにインド洋を隔てた両地域には近縁な生物が見られる(隔離分布)。
これを説明するために、スクレーターは5000万年以上前のインド洋にインドの南部、マダガスカル島、マレー半島があわさった大陸が存在したのではないかと考え、キツネザル(レムール、Lemur)にちなみ「レムリア大陸」と名付けた。
また、ドイツの動物学者エルンスト・ヘッケルは自著『自然創造史』 (Natürliche Schöpfungsgeschichte) でレムリア大陸こそ人類発祥の地であると主張した。
そのほかにも一部の地質学者がインド洋沿岸地域の地層の構造が酷似していることから似たような説を唱えている。
しかし、インド洋を含め、大洋によって隔てられた地域間の生物相の類似については、1912年の気象学者アルフレート・ヴェーゲナーの大陸移動説によっても説明がなされた。
当初はレムリア大陸説をはじめとする陸橋説が優勢だったが、1950年代より大陸移動説が優勢となった。1968年にプレートテクトニクス理論の完成により大陸移動説の裏付けが確実なものとなり、レムリア大陸説は否定された。
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参照は、Wikipediaより抜粋
🌷SoulFlower Kamuy🌷