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「息子の幸せ≠親の価値観」に気づいて見つけた自分の人生の楽しみ方

わくわくして動き出さずにはいられない原動力「わくわくエンジン®」を持って活動している方たちを紹介する連載「わくわくエンジン図鑑」。
認定NPO法人キーパーソン21がお届けします。

どんな世代の人にも気さくで接してくれる、副代表理事のバカボンこと渡邉 明男さん。
人を楽しませたり、人を苦しいことから救ってあげたりするのがわくわくエンジンだといいます。
そんな渡邉さんが唯一コミュニケーションに苦しんでいたのは最愛の息子さんでした。なぜコミュニケーションを取りづらくなったのか、そして渡邉さんが父親としてどう変わっていったのか、、、

【図鑑 No.18】
お名前 
渡邉明男(バカボンわたなべ)
お仕事 
・キーパーソン21では、教員と学校領域と、組織をより良く改善すること
・富士ゼロックスの営業(管理職)としてお客様に価値あるアウトソーシングサービスを提供すること
・ドラッカー学会では企業内でドラッカー自習塾を主宰、社会人基礎力協議会リカレント委員会で社会人の学び直しを流行らせること
・国際松濤館空手道連盟鶴間道場で、子供たちに空手の精神を伝えること
わくわくエンジン
・「楽」を増やすこと
・今の自分の殻を脱ぎ捨て変わる事にわくわくする。

中学校の時に描いた夢に向かって理想の人生を歩んできた

私は千葉県の銚子市で八百屋の息子として生まれ育ました。小学校・中学校は近所の学校に行き、さて高校はどうしようと思ったのが中学校2年の時でした。もうその時点で、将来自分がどんな道へ進むのかという進路を決めなければならない時でした。田舎だったので、普通高校が2つ、商業高校、工業高校、農業高校、水産高校があり、士農工商ではないのですが当時の田舎では職業系の高校の選択肢が多かったのです。

八百屋の長男だったから、親や親戚は当然、僕が八百屋を継ぐと思っていたので、商業高校に行くと思っていたようです。前述の選択肢6つの高校の上から2番目が商業高校でしたから、町の中では好印象の高校です。

でも、一年のうち元日だけが休みで364日働き詰めの両親の姿を見てきた私は、「すごく大変そうだなぁ、自分が大人になったらもっと楽に暮らせる様になりたい」と思っていたのです。今になって思うと、子どもの頃から、現状から変わりたいとか、楽になりたいって思う癖みたいなものがあったのかもしれませんね。

当時はインターネットなんてないから情報ってテレビぐらいしかなかったんですよ。たしか電卓が普及し始めたばかりの頃でしたが、何の番組で見たのかは定かではないのですが、これからはコンピューターの時代だと思いました。それで自営業の家庭ではなく、コンピューターの会社のサラリーマンの家庭を作ろうと思いました。サラリーマンの方が、休みがいっぱいあっていいなと漠然と思っていました。休みが多くて、さらに給料の事も考えると、大企業に勤めなければなりません。コンピューターの大企業と言えば、どこで知ったかは全く覚えていませんが、世界で一番おおきなI B Mのサラリーマンになろう!と決意したんです。

そして本屋に行って大学の赤本を見ました。赤本にはもちろん過去の入試問題やその傾向が書いてあるのですが、当時14歳のIBMサラリーマンになりたいあきお君は、入試問題なんてさっぱりわかるわけがないのですが、赤本の後ろの方の主な就職先を見ていました。東大、早稲田、慶應、…と偏差値の高いところから順番に見ていったんです。そうしたら最低でも明治大学入らないと I B Mに入社できないことがわかりました。

そして本屋から家に帰った中学2年の私は、親に「僕は将来 I B Mに入るから、そのためには最低でも明治大学に入らなければならない、だから普通高校に行きたい」と言って説得しました。その当時の親は、たぶん、息子が叶わぬ夢を言っていると思ったに違いありません。でも普通高校にも、大学にも行かせてくれました。

そして、大学生四年生、就職先を決める時、(それまでは忘れていたのですが)中学生の時の夢だった I B Mに応募し内定ももらいました。ある意味、その時に夢が叶ったわけですね。

夢は叶うと、すぐに冷めるものでして、当時のIBMは約1万人の会社でしたが、新卒を2000人ぐらい採用していたみたいです。
すると、もしIBMに入社しても果たして5年で何人辞めるんだろう?と考えた時に恐らく自分は5年以内に辞める方になるだろうなと思いました。それなら大学の推薦をもらって就職できる富士ゼロックスに行こうと思いました。結局、現在も勤めていますので、あの時の判断はある程度は正解だったと思います。

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今では当たり前にやっている事なのですが、振り返ってみると、中学生の時に思い描いたサラリーマン像という夢(目標)に向かって、中学生の私はバックキャスティングで考えて、高校を選択して、一歩ずつ進んで来たわけです。

また、就職後の家庭生活も同様で、24歳で結婚し夫婦になり、5年ぐらい経ったら30歳ぐらいで親になる、そんな考えをもっていました。そしてほぼプランどおりの人生を歩んできた様な気がします。ある意味、自分の人生は思い通りだったのです。

そこまでは、良かったのです…
でも、きっと、その成功体験がいけなかったんです…

息子にも人生のプランを立てて歩んで欲しかった

千葉の田舎で育った私が、中学の時に考えていた夢を叶え、思い通りの人生を歩んだので、長男にも同じように人生のプランを作って生きていって欲しいと期待しました。

そのために子どもには選択ができるように、色々な習い事をさせてみたのです。リトミック、英会話、書道、スイミング、ピアノ、公文、空手…、そこには本人の意思には関係なく、周りの子が習っているから、世間で流行っているから、など親がやらせたいことをやらせていただけだったのです。

親の立場としては、小さいうちは色々なことを習わせて、自分が好きだと思えるものを見つけて選んでいけばいいと信じていました。でもその時は自分の子どもの様子を見ていなくて、世間の他の子どものことばかり見ていて、一方的に与えているだけで本人が喜んでやっているかどうかお構いなしだったです。

そして息子は、だんだん思考停止してしまいました。暗黙のうちに息子にストレスやプレッシャーをかけてしまっていたのだと思います。

私は長男に対し過度な期待を持っていたせいか、できないことがあると怠けているんじゃないか、サボっているじゃないか、と思って叱ったり、手をあげてしまったりしたこともありました。本人は一生懸命やっていても、私にはそうは見えなかったんですね。だから本人は何で怒られているのかわからなかったんじゃないかと思います。

私はみんなと同じことができないことに怒ったり、期待通りにできないとイライラしてしまっていたんでしょうね。このことは今でも本当に反省しています。その頃から、徐々に長男とのコミュニケーションをうまく取ることができなくなっていました。

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息子とどう接したらいいのかわからず、キーパーソン21で学びはじめた

息子は、中学・高校と本人の意向もあり、中高一貫校の私立に通っていました。規律には厳しい学校だったこともあり、中学や高校でも何度かトラブルを起こし、親としても学校に呼び出されました。高校生の時、学校側から誓約書の提出を求められました。「次回トラブルを起こしたら自主退学します」という内容の誓約書でした。それを読んだ時に学校を辞めるということを親が誓約すべきものなのだろうか、と悩みました。

そして私は、誓約書の内容を「私は責任をもって息子を指導し卒業させる事を誓います」という内容に書き換え、それを持って校長と話しに学校に行きました。校長に「学校って一体何をするところなのですかね!?」と尋ねたのです。私は子どもを育てるのは学校にも責任があると思っているので、保護者の私も努力しますが、卒業するまで学校側も指導して欲しいとお願いして、訂正した誓約書を渡してきました。

その頃は、親として、息子とのコミュニケーションをどうしていいのかわからないと自分に課題を感じていました。2014年夏のNPOが集まるイベントでキーパーソン21を知り、子どもの接し方をはじめ、子どもに対しての感じ方や見方を学びました。

それまで息子に対して、彼がわくわくする前に、私が作った枠にはめていたのだと気づきました。彼の立場から選択した道ではなく、私から見た正解と思える方向へのレールをしっかり敷いていました。

キーパーソン21では、決して子どもたちの発言を否定しない、意見を尊重するという考え方があります。私は息子の発言が自分の期待したものと違うとき、その言葉を否定してしまっていたのです。それを繰り返すうちに息子の思考は停止し、自分から私への発言をしなくなり、コミュニケーションが取れなくなったのだと、今となってはわかります。

最近になって、就職した息子は、自分なりに考えて夢をもっています。また、サラリーマンをやり続けていた父親の大変さや苦労も、自分自身がサラリーマンになって、少し理解し始めた様子です。決して息子とのコミュニケーションの問題は解消されたわけではありませんが、息子の成長とともに明らかに改善はしていると実感しています。

キーパーソン21の中でも、他人のお子さんには優しく接する事ができるのですが、「自分の子どもにはできないんだよねー!」との話がよく出ます。やはり自分の子供への愛情は、期待という困った心のバイアスをかけてしまい、冷静に接する事は難しいのかもしれません。息子と年齢差は何年経っても埋まりませんが、パーセンテージで表すと差分は年々減っていきます。いつか分かり合える時が来ると信じて、楽しみに待ってみます。

わくわくエンジンを発見して さらに人生が楽しくになった

これまでの私の人生は、自分の人生の目標に向かって常に“ねばならない”ということを重ねてきました。でも実は私のわくわくエンジンは

「楽」を増やすこと

だったのです。
“楽”は楽しいという意味と、辛いことや苦しいことを取り除いて"楽”になるという意味があります。どちらかというとこれは他人に対してのストロークです。

例えば「渡邉さんが来てくれて楽しかった」と言ってもらえたり、「渡邉さんのおかげで楽になりました」と言ってもらえたりすることにとても喜びを感じています。そしてこのわくわくエンジン発見後は、“楽”を意識して行動するようになりました。

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53歳は社会のゴミ  だから自分のリサイクルを考える

もう一つの私のわくわくエンジンは

今の自分を脱ぎ捨て、新しいものにわくわくする。変態を楽しむ。現状の自分に課題を感じて変わっていくことを楽しむこと

です。これは自分に対しての変化変容です。

半分冗談ですが、53歳は社会のゴミ(53)って僕は言っているんです、年齢の読み方の単なる駄洒落です。
でも、半分真面目に考えると、社会では53歳って結構なおじさんで、会社のなかでも成長なんて望めない存在として扱われている気がします。
大企業の中ではよくある役職定年を考えると、その人の能力は前の日と全く変わらないのに、役職定年の誕生日が来ると突然、役職がなくなり、部下もいなくなったり、異動したりすることもあるのだと思います。

そう考えると、会社のゴミになった自分をどうやってリサイクルするか、自分を見つめなおすために大学院に通い始めました。きっと、常に第三者的視点を持って自分を見て、自分を律し、自分の置かれた環境に合わせて、自分の変化・変容を起こさなければならないというなんか切迫感や強迫観念みたいなものが少しあるのかもしれませんが、ポジティブに自分の未来の人生をわくわく楽しもうと考えています。大学院に行って意識的に自分の変化・変容を起こして、その先の人生を楽しもうと考えております。まさに人生という道を楽しむ専門家になりたいと思います。

自称ですが【道楽家】です。

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パラレルキャリアを楽しみ、学びながら変化・変容する

現在、富士ゼロックスのサラリーマンをやりながら、ドラッガー学会で経営を学んだり、キーパーソン21で副代表理事として総会をやったり、国際松濤空手道連盟鶴間道場でも子供たちに空手の指導をしています。今年から新たに始めたのは社会人基礎力協議会で社会人に対するリカレント教育をやっています。

大学で勉強して会社に入ればそれで終わりじゃなくて、社会人になっても学び続けることって大切なのだと思っています。人生100年時代ですから、私自身が60歳で定年した後も、世の中で価値ある生き方ができる様になりたいと思っています。だから学び続け、今の自分の人生を脱皮し、これからもずっと新しいものにわくわくしながら、自分の変化・変容を楽しもうと思っています。


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