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筆のようなことば

近ごろ本屋さんに行くと、必ずと言ってもいいほどエッセイ本を買ってしまう。

先週は一冊、
今週は三冊。

さっきは、古びれたコンクリートに水色のかわいいビルにあるカフェで、谷川俊太郎さんの「ひとり暮らし」を読んでいた。

自分が読む前に友だちに貸したら、緑色のポストイットがそれはそれはたくさん貼られて返ってきた本。
その子の影響で、わたしも気になった言葉には付箋をつけるようになった。


小さい頃はファンタジーが大好きで、少し大きくなってからはミステリー(東野圭吾さんの本ばかり読む小学生だった)を読み、しばらくほとんど本を読まない期間があり、その間にヨシタケシンスケさんの絵本に心をわし掴みにされ、ようやく活字の世界に戻ってきた最近。
星野源の「いのちの車窓から」に始まり、すっかりエッセイ本の世界から抜け出せなくなってしまった。


なんでエッセイ本なんだろ〜
と我ながら疑問なのだが、
そういえば私は”誰かの頭の中”を想像したり、街中ですれ違う”名前も知らない誰か”の生活に想いを馳せてみたり、そういうことが好きだ。

エッセイ本には、そんな誰かの思考と生活が詰まっている。わくわく。


カフェでマーマレードとシナモンの効いたココアを飲みながら読んでいたページに

目が顔に出会う、からだがからだに出会う、心が心に出会う、ことばにすれば三つの出会いとも思われかねない出会いというものも、実はひとつだ。
現世で手に触れることのできるのはからだだけであるとしても、ことばをもつことのできた人の心は、この世ならぬものまでを日常の中にまざまざと描き出す。
人間は他者のからだ・心を媒介にして、自らの死を超えて宇宙に恋することができる。

「ひとり暮らし」谷川俊太郎より

とあった。
くやしいことに(?)、齢21歳のわたしには「わかる」とも「わからない」とも言えないことばだった。
でも「なんか、そんな気がする」んよね。


ことばを介して、本来はふれられない誰かの頭の中を覗き見する。
そのことばと頭の中が、ふれられない、在るかも確かめられないわたしの何かの輪郭をなぞる。
時間もあの人も解決してくれなかったことが、誰かが綴ったことばによって掬われる。


そんな世界に生きられて嬉しいなぁ、と思う。

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