都市には「孤独」を与える回路が必要だ(庭の話#14)
昨年末から僕が『群像』誌で連載している『庭の話』を、数ヶ月遅れで掲載しています。今回載せるのは第12回です。過去の連載分は購読をはじめると全部読めるように設定し直しておいたので、これを機会に購読をよろしくお願いします。
1.美味しんぼVS孤独のグルメ
私が世界でいちばん嫌いなものに「飲み会」がある。出版業界のとくに批評や思想の世界の一部にはいまだにこの昭和的な「飲み会」の文化がはびこっている。業界の中ボスみたいな奴がいて、そいつが相対的に若い取り巻きを連れて飲み歩く。取り巻きはボスの「敵」の悪口をときに事実無根のデマや悪意を持った誇張を交えながら話してご機嫌を取る。最悪の場合ボスはその模様をインターネットで生配信して、読者に「いじめ」の快楽を提供する。心の底から軽蔑を禁じ得ない行為だが、口では「新しい思考の場所をつくる」とか言っておきながら、実態としてはこのような旧態依然としたコミュニケーションが当たり前のように行われているのがこの古い業界だ。そしてそれを、世間とはこういうものだと実質的に許容している有名出版社の編集者や大新聞の記者も少なくない。
実名を挙げて彼らにその倫理を問うこともできるのだが、今回の本題はそこにはない。これはいささか(いや、かなり)極端な例だが、昭和的な「飲み会」「飲みニケーション」の本質が現れている。つまりこの場で行われているのは友と敵の境界線の確認に他ならない。それは酩酊して本音を共有することのできる「仲間」の範囲を、メンバーシップを確認する行為なのだ。まさにこの21世紀にメンバーシップ型の雇用に拘泥する(ときに「JTC」=Japanese Traditional Company と揶揄される)「伝統的な」日本の大企業がこうした昭和の「飲み会」「飲みニケーション」の実質的な保護者であることは、このことを証明してしまっている。この種の会合がその場にいない誰かの欠席裁判になりがちなのは、その場の目的がメンバーシップの確認にあるからに他ならない。
SNSのプラットフォーム上で行われている相互評価のゲーム(承認の交換)のゲームはこれを、簡易化したものだと考えればいい。このゲームにおいては敵を貶めることで、友から承認を獲得する行為がもっとも「効率」がよいことはすでに解説した通りだ。「飲み会」「飲みニケーション」と異なるのは、タイムラインに出没するメンバーの流動性が高く、入れ替えが激しいことと常に「発言」していなければその存在が認知されないことだ。そのため、ただ黙ってボスに酌をしていれば最低限の承認は獲得できる「飲み会」「飲みニケーション」と異なり、SNSのプラットフォーム上では常にその集団の敵を罵倒し続ける必要がある。言葉の最悪な意味において、プラットフォームの相互評価のゲームとは、「飲み会」の進化系なのだ。おそらくここに、このゲームに特化したSNSプラットフォームであるTwitterが「飲みニケーション」を捨てられないこの国で圧倒的な人気を誇り続けている理由がある。
私は10年ほどまえにこの種の「業界」の文化に心底ウンザリして「飲み会」の類には出なくなり、もともと好きでもなかった飲酒もきっぱり止めた。そもそも私は「飲み会」というか「会食」そのものがあまり好きではない。もっと言ってしまえば私は誰かと一緒に「食べる」ことがそれほど好きではないのだ。理由は一つ。会話をしていると、そちらに気を取られて「食べる」ことに集中できないからだ。
そもそも私は「食べる」ことが好きだ。というか、ある種の執着を抱いて生きている。外食が多いが「適当な店に入る」ことが許せず、納得の行くまで検討して入店する。夜寝る前には必ず明日は何を食べようか考え、目星がつくとそれを楽しみに眠りにつく。
こうなってしまった理由は明白で私は高校生のころ、つまり一番育ち盛りの食べたい盛りにロクなものを食べていなかったからだ。私は高校時代にある地方都市のミッションスクールの寮に入っていたのだが、ここの食事が信じられないほどマズかった。栄養士の監修のもとに十分なカロリーとバランスの取れた栄養の摂れるメニューが提供されていたのだが、限られた予算でそれを実現しようとした結果、完全に「味」が度外視されていたのだ。
その結果として、毎食3つから4つのおかずが提供されていたにもかかわらず、その中で人間が口にして不快にならないレベルの味がするおかずは1品あるかないか、だった。この寮食で提供される噛み切ることすら難しい豚肉は「ゴム肉」と呼ばれて恐れられ、正体不明の骨ばかりの白身魚の臭気は食堂の外の廊下まで漂って、私たちの吐き気を誘った。
私たち寮生は毎食、そのプレートの中で一番「マシ」なおかずを見つけてそのおかずと一緒にできるだけたくさんの白米を胃に詰め込んで、毎食をやり過ごしていた。年に一度のクリスマス会で、モスバーガーとハーゲンダッツのアイスクリームが提供されたときには世界にこんなにおいしいものがあるのかと涙が出た。このような青春を送ってきた私が、人一倍「食べる」ことに執着したとして誰が責められるだろうか?
そして気がつけば私は、目の前の食べ物に集中する食事を、もっと言ってしまえば孤食を愛するようになっていた。誰かと食事に行くときも会話はもっぱら食後のコーヒータイムに取っておいて、まずは目の前の皿にがっつく。これが私の流儀になっていった。そしてここが重要なのだが、こうして人間とのコミュニケーションを一時的にでもシャットダウンすることーーこれが目の前の料理という「事物」とのコミュニケーションに集中する唯一の方法なのだ。
以前、私の編集する雑誌に若い書き手が寄せた文章に山岡士郎(『美味しんぼ』)と井之頭五郎(『孤独のグルメ』)という、日本を代表する2つの「グルメマンガ」の主人公の「食べ方」が比較が展開されていた。「一週間待っていろ、俺が本物の○○を食べさせてやる」ーーそう啖呵を切った山岡は本当に一週間後に他の登場人物に「本物の」料理を食べさせる。それがなぜ「本物か」を山岡は得意気に話す。対して井之頭五郎は徹底して「孤独に」眼の前の料理に向き合う。前者がそのレシピと調理法の解説に重心をおいた蘊蓄の類であるのに対し、後者は「食べる」という体験そのものを記述している。山岡の目的が終始、その豊富な知識を駆使して相手をやり込めることであるのに対し井之頭の目的は「食べる」ことそのものにある。簡単な話だ。山岡のそれはいささか極端な例かもしれないが、誰かと食事を共にすることは、「食べる」という行為を純粋に味わうことから人間を遠ざけるのだ。そしておそらく、ここに「庭」の最後の条件がある。事物と純粋に接触するために、それを正しく受け止めるためにそこは人間を「孤独」にする場所でなくてはいけないのだ。
2.福祉の敵
しかしいま「孤独」は不当に貶められている。2018年、イギリスは「孤独」を「現代の公衆衛生上、最も大きな課題の一つ」として、世界初の「孤独担当大臣」を任命しその対策に乗り出した。背景には国民ーー特に高齢男性ーーの社会的な「孤立」があるという。主観的な感情をさす「孤独」と、社会的な状態をさす「孤立」は異なる概念だが、この両者は常にセットで語られる。今日においては社会的なネットワークから離脱してしまった「孤立」と、人間の内面的なものである「孤独」な感情はいま同等に扱われており、そしてどちらも社会的な「ケア」の対象になりつつあるのだ。
背景に存在するのは、先進国が軒並み直面する社会保障費の増大とその削減の「方便」としての「ウェルビーイング」の推進だ。好意的に言い換えれば治療医学から予防医学へのシフトだ。情報技術と医療の結託は、病を治す医療(治療医学)から常に人間の身体をスキャンし、先手を打って病気にならない状態を維持する医療(予防医学)への移行を促している。このことそのものは、間違いなく世界に存在する総不幸量を削減するだろう。しかし、この新しい人間観の濫用には、相応の副作用が想定される。
〈ロンドン大経済政治学院(LSE)が17年発表した研究によれば、「孤独」がもたらす医療コストは、10年間で1人当たり推計6000ポンド(約85万円)。生協などの調査では、孤独が原因の体調不良による欠勤や生産性の低下などで雇用主は年25億ポンド(約3540億円)の損失を受ける。〉
そもそも人間の幸福がこのように数値化されることに、強く違和感を覚えざるを得ない。愚行権という概念を持ち出すまでもなく、仮にこの数値が何らかの事実を示しているとしても、体調不良や生産性の低下と引き換えに得られる内面の自由や幸福といったものを、この試算は完全に度外視している。
そしてイギリスという国家がこの「孤独」に対する「ケア」として提供したものの中で、「もっとも有効」であるとされるのが「メンズ・シェッド(mens’ shed)」、直訳すれば「男たちの小屋」だ。これは日本国内でも問題化されているが、定年退職後の男性会社員は職場以外の人間関係が希薄になる傾向が見られる。そこで、この「メンズ・シェッド」では、こうした高齢男性に居場所を与えることを目的にしている。
〈定年後の男性はとかく孤独に陥りがち。そうした方々が定期的に集まって、大工仕事を一緒に行う。テーブルやベンチをこしらえて公園に設置してもいいし、学校に手作りの遊具を寄付しても喜ばれます。男性の皆さんは、手を動かして一緒にものを作ることで「友情が生まれ、生きがいに通じる」と言います。会社勤めをしていた時は、あまり目を向けなかったコミュニティーとの絆ができて、感謝の言葉をかけられる。これは、孤独解消に大きな力があったと評価されています。〉
今日のより最適化された「スマートな」福祉国家はこのように人間の幸福を数値化し、一元的な価値で評価することに躊躇いがない。私は飲酒も喫煙も好まない。と、いうかむしろ非常に苦手であり、無頼を気取りたくてこれらの嗜好品への愛情をアピールする類の人々にも安っぽい自己愛以上のものは感じたことがない。しかし、たとえ肺や肝臓をどれだけ傷めてもこれらの嗜好品とともにある時間を愛するという精神は確実に存在するし、尊重されるべきだと思う。同じように孤独に世界に佇むことで初めて得られる快楽もまた、確実に存在するし尊重されるべきだろう。この「福祉政策」からは、嗜好品とともに孤独な時間を愛するという生き方が、国家予算の緊縮を理由に決定的に貶められている。そして、この「社会福祉」は二言目には「絆」「つながり」「コミュニティ」と口にする文化人や研究者のお墨付きが与えられる。これらの議論の多くは、大手メディアや大学の保護下にある研究者の口から、つまりビニールハウスの中から寒空の下に生きるあなたたちは、身を寄せ合って暮らすべきだと脳天気に「忠告」される。しかし彼ら彼女ら自身がビニールハウスの中にいられる権益を手放して他者と分かち合うことは決していない。
そしてその言説は偽善であるだけでなく驚くほど空疎だ。その多くが、この国の進歩的な知性が長年格闘し、批判してきた村落の封建的な共同体や、排他的な既得権益集団と化した商店街のコミュニティを、これらの批判を都合よく忘却し称揚する。あるいは、この連載でかつて取り上げたように目の前の公園を再開発で追われるホームレスに門を閉ざしながら、クリエイティブ・クラスの集団生活を「拡張家族」だと誇り、渋谷の高層ビルと大分の山村を結ぶ二拠点居住をアピールする醜悪なパフォーマンスといった類のものをその「成果」として取り上げるのだ。
こうしたハートフルだが無内容な物語の類は令和のマリー・アントワネットたちのセルフ・ブランディング以上のものではなく、この種のありふれた卑しさに対してはちょっとした軽蔑をもって対応すればよいだろう。そして、こうした安っぽい物語に公金を投入する首長には、次の選挙で思い知らせればいい。しかし本当の問題は こうした潮流の中で「孤独」は不当に貶められていることだ。
ちなみに紹介したイギリスの「孤独」解消に向けた取り組みを高く評価し、それに追随し世界に二番目の「孤独」対策担当閣僚を設置した国家がある。その国は「孤食」という概念を1970年代に「発明」し、社会問題として指弾してきた。そしてそれがどこかは、もはや説明する必要はないだろう。
3.「孤食」を再評価する
そもそもこの「孤食」という言葉は1975年、保健学の研究者である足立己幸による造語であった。足立は1975年、「99世帯の家族全員を対象に、「いつ」「どこで」「誰と」「何を」食べたか、を記録してもらう調査を行った。すると、摂取しているエネルギーはほぼ同じにもかかわらず、どの世代でも、家族と一緒に食事をするほうが栄養素の摂取のバランスがよい人が多いことが分かった」という。その後、足立は「家族と食卓を囲むこと」が栄養学的に充実した食につながるという前提で啓蒙活動を行ってきたが、約半世紀を経た今日では、この孤食/共食という図式を提示したことを「反省している」と述べている。
当然のことだが、実際の孤食は多様であり、必ずしも一人で食事を摂ることが栄養学的に劣った食事をすることを意味しない。足立は孤食の頻度に注目した自説を反省し、その内容に注目する。たとえばそれがたとえ孤食であったとしてもその内容を友人等に共有することによって、食の内容は充実する、といった現象を正しく評価すべきであるというのが現在の足立の立場だ。
この足立の「転向」は常識論的に考えて妥当なものだと考えられるが、その一方で正しく栄養を得るという「保健学」的な観点から食をとらえることそのものの限界も露呈している。足立の力点は、他の人間と「つながる」こと(食卓を囲むこと、食事の内容を共有すること、料理を共にすること)などが、結果的に品目が多く栄養バランスに優れた食事につながるというものだ。足立の議論は、食事を精神的な活動として位置づけることを優先しない。そのため、「孤食」そのものの豊かさを発見することがないのだ。
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