戦争の総合性とテロリズムとしての制作(庭の話 #18-3)
このマガジンでは僕が『群像』誌で連載していた『庭の話』を、数ヶ月遅れで掲載しています。今回載せるのは第18回です。過去の連載分は購読をはじめると全部読めるように設定し直しておいたので、これを機会に購読をよろしくお願いします。(今回、長いので3分割しました。これが3回目です。今月購読すると全部読めます。)
7.戦争の総合性とテロリズムとしての制作
いま、私たちが必要としているのは3つの回路だ。
まず豊かな事物と、それに触れることができる「庭」的な場所だ。次に、これらに人間がかかわる回路としてのあたらしい連帯のかたちだ。それはたとえばアグリゲーターの機能を備えた新しい株式会社であり、既存のプラットフォームをハックするインフォーマルな擬似プラットフォームであり、これらに共通する「弱い自立」を基盤にした社会がその延長にはある。
そして最後に必要なのは、こうしてかかわった「庭」的な場所で触れた事物を、人々が自ら「つくる」回路だ。
具体的に考えてみよう。それはまずただ「受け止める」主体として出発する。ラーメンが美味しいとか、景色が美しいとか。そこからはじまる。そして人間の欲望は一定の確率で強くなる。ラーメン中毒になり、写真を撮ることにハマり、ランナーズ・ハイになり、ある特撮ヒーロー番組の玩具収集を20年以上続けて「もはや新作以外に欲しいアイテムはない」段階にたどり着いてしまったりする。この状態が加速すると、人間はどうしても欲しいがまだ世界には存在しないものを求めて「制作」をはじめる。これが第二段階だ。
そしてこの第二段階に達すると「承認」や「評価」が究極的にはなくても人間は事物を通して世界に関与することになる。0から1を生み出すことで、小さくても世界を変える。その生み出す事物自体が手触りになるのだ。「受け止める」ことから「つくる」ことに深化したとき、事物とのコミュニケーションは人間を支える第三の回路になる。承認でも評価でもなく、制作によって人間は世界に対する手触りを得る。僕はこの回路「も」もつことが、「である」ことや「する」こと「だけ」で息苦しくなっているこの世界の隙間になると考えているのだ。そして、人間が「事物」とかかわることを深化させるために必要な環境のことを「庭」の比喩で考えたのがこの連載であり、「庭プロジェクト」なのだ。
しかし事物を「つくる」回路を中心に考えたとき、ネックとなるのは、人間の動機の問題だ。
この「庭」が対抗するべきものは、究極的には「戦争」のもつ総合性であることはこれまでの連載で述べたとおりだ。いま、もっとも(総力戦以降の、情報化した)戦争のもつ求心力と総合性に肉薄しているものがSNSのプラットフォーム上の承認の交換のゲームに他ならない。だからこそ、この連載における「庭」は戦争の与える総合性に匹敵する力を求められ続けた。そのために鞍田崇は事物へのインティマシーに注目し、井庭崇はそれを「つくる」ことの民主化を提案した。そしてこの連載では人間を「つくる」ことに動機付けるためにまず「受け止める」ことを、人間に能動的に働きかけるものについて考えてきた。その人間を襲い、傷つけ、渇望をもたらし、制作へと動機付けるものがありはじめて「庭」は機能する。ただし、それは(総力戦以降の、情報化した)戦争のもつ求心力と総合性に対抗できないといけない。
こうして考えたときおそらく、人間をもっとも強く、総合的に傷つける事物、それは創作物だ。
人間を制作へと動機付けるために、人間はまず襲われる必要がある。そこで受け取ったマゾヒスティックな快楽のみが、人間を制作へと正しく動機付ける。木暮と三井が友情ではなく、恋愛で結ばれる物語を欲望する読者がいる。しかし井上雄彦自身は決してそのような物語を描かない。そして、彼女は自らその物語を編むためにペンを執る。これが制作の出発点になる。
しかし、二次創作は物語内の架空の存在を脱構築はしない。彼/彼女に意外な側面が二次創作で与えられるほど、原作の中での彼/彼女に与えられた人物像は強化される。気さくで明るい綾波レイが描かれるほど、その作中での感情表現に乏しく、孤独な内面が強化される。多くの二次創作の語り手たちが直面するのはこの現実だ。彼女がどれだけそれを願っても、その願いを叶える可能世界上の物語を作り上げたとしても、いや、作り上げれば作り上げるほど木暮と三井が性愛で結ばれることは「ない」ことが、あるレベルでは強調されることになる。そのため、より強くそれを求める二次創作者は結果的に新しい物語を、自らの手でゼロから生み出すようになっていく。このときはじめて、人間はある物語に別の物語を対置することになる。二次創作ではなく、まったく異なる物語がこの世界に併置されることを求めるようになる。このようにして人間は本質的な意味でこの現実とは異なる世界を求めるようになる。そしてようやく、私たちは総力戦以降の「戦争」が総合的に支配する現実に含まれない場所を想像することができるのだ。
総力戦以降の新しい戦争が代表する現代の「現実」はその高い総合性によって、私たちの暮らしをまるごと包摂する。だからこそ、もはや「虚構」にしかその出口はない。「虚構」だけが、総力戦以降の「戦争」に匹敵する総合性を持ち得る。正確には、戦争の代表する現実の総合性を食い破る力が発生する。もはやその行為によってしか代替できないものを欲望したとき、はじめてこの総合性は相対化される。虚構の創作物、とくに物語のかたちを取るものだけがこの暮らしをまるごと包摂する現実に対するオルタナティブになり得るのだ。「庭」の中核には事物の伴う強い虚構が、私たちを襲い、一方的に傷つける強い虚構が何らかのかたちで必要なのだ。
8.拡張現実の時代と虚構の敗北
しかし、いまこの虚構こそが社会から大きく退いている。
初回に述べたように、情報技術は人間に発信する快楽を覚えさせた。いま、人間にとって時間的に、経済的にもっともパフォーマンスの良い精神的な活動は、情報技術を用いて誰かと承認を交換することだ。
人間は愚かな生き物だ。それがどれほど希少で濃密なものであったとしても他人の物語を聞くよりも、それがどれほど凡庸で空疎なものであったとしても自分の物語を語る方に快楽を覚える。いま、人類は情報技術に支援され、他の誰かと共感する快楽を簡単に手に入れられるようになった。このとき自分の語る自分の物語に共感「される」ことで得られる承認の快楽は、主観的だが相対的に大きい。そのため、多くの人々がそれを中毒的に求めている。
そしてその結果として、いま人類の社会は虚構と現実のパワーバランスを、大きく後者に傾けている。孤独に虚構に触れるよりも、他の人間たちと現実に承認を交換することのほうを、より求めている。
たとえばある作家が10年以上の年月をかけた大作を完結させたとき、プラットフォーム上の承認の交換のゲームで支配的になるのは、作品(虚構)ではなく彼が妻の献身で鬱病を乗り越え、作品を完結させたという作品外の事実(現実)の側だ。タイムラインは彼の人生への祝福が溢れる一方で表現の内実はほぼ、問われなくなる。
なぜ、そうなるのか。それは虚構は、作品は、事物は人間に一方的に語りかけるだけだが、現実の人間とのコミュニケーションはこちらから語りかければ即時的に承認を与えてくれるからだ。虚構の存在に、暗闇から手を伸ばし手探りでその輪郭を探るよりも、情報技術に支援されて数字として表示されるインプレッションのほうを、人々は時間的なパフォーマンスの良い快楽として思考しているからだ。
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u-note(宇野常寛の個人的なノートブック)
宇野常寛がこっそりはじめたひとりマガジン。社会時評と文化批評、あと個人的に日々のことを綴ったエッセイを書いていきます。いま書いている本の草…
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