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【特別寄稿】2019年の「現実 対 虚構。」――『全裸監督』をめぐって(前編) | 成馬零一

今朝のメルマガは、成馬零一さんによるNetflixドラマ論をお届けします。今日の劇映画において、以前にも増して肉薄しつつある「虚構」と「現実」の関係。それは、80年代の性風俗を描いたNetflixのドラマシリーズ『全裸監督』では、現実に対するフィクションの劣位として現れています。本作があらわにした「実話を元にしたフィクション」の問題点について考えます。
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 現実 対 虚構。

 これは2016年に公開された庵野秀明監督の怪獣映画『シン・ゴジラ』のキャッチコピーである。ちなみに現実にはニッポン、虚構にはゴジラとルビが触られている。
東京に上陸した謎の巨大生物・ゴジラの暴走を止めようとする日本政府の戦いを描いた本作は、実査に謎の巨大生物が日本を襲来した際に、官僚組織や自衛隊がどのように動くのかという政治状況を精密に描いている。
 1954年に作られた本多猪四郎監督の初代『ゴジラ』は、ビキニ環礁の核実験に着想を得ている。放射能を吐く怪獣ゴジラは核兵器とまだ日本人にとって生々しい記憶だった東京大空襲の暗喩だった。
『シン・ゴジラ』は2011年の3月11日に起きた東日本大震災による津波とその影響による原発事故の暗喩として『ゴジラ』を捉え直し、もしも東京で津波と原発事故が起きていた場合に日本政府はどう行動するかという、ありえたかもしれない3.11(と、その克服)を怪獣映画の形で表現されていた。
そんな『シン・ゴジラ』のキャッチコピーである「現実 対 虚構。」は、本作のテーマを言い表した優れたコピーであると同時に、3.11という圧倒的な現実を、ゴジラという荒唐無稽なフィクションの世界に凝縮した本作のあり様を現している。つまり膨大な情報を加圧縮したリアリスティックな作りこそが、庵野秀明たちフィクションの作り手による最大限の(現実に対する)抵抗だったと言えるだろう。

『シン・ゴジラ』を筆頭に、国内外問わず、現在のフィクションの作り手は、日々世界中で起こる、次から次へと押し寄せてくる圧倒的な現実に対し、虚構の担い手としていかに振る舞うのかが、問われている。

 それは一見、純粋な虚構にみえるアメコミ映画やディズニーアニメ、あるいはファンタジー世界を描いた海外ドラマの『ゲーム・オブ・スローンズ』にしても同様だ。どれだけCGやアニメーションを駆使した荒唐無稽な作品であっても、否、むしろ虚構性が極まるほど、それらの作品は現代の神話として見られるようになり、フィクションの裏側にある現実の暗喩を読み解くための駒となってしまう。純粋なフィクションであるアメコミやファンタジーですらそうなのだから、いわゆる現代を舞台にした劇映画の担い手は、より現実に接近した作品を作らざるを得ないというのが現状だろう。

賛否を呼んでいる『全裸監督』

 そんなフィクションの現状が大きく現れていたのがNetflixで8月8日に配信された『全裸監督』だ。
本作は本橋信宏がまとめた『全裸監督 村西とおる伝』(太田出版)を原作とするドラマだ。

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▲『全裸監督 村西とおる伝

 英会話教材の営業マンだった村西とおる(山田孝之)が、ビニ本販売を入り口にエロの業界に足を踏み入れ、やがてアダルトビデオ制作に乗り出す姿を描いた本作は、80年代の風俗や町並みを再現したピカレスクロマンとなっている。
 地上波のテレビドラマと比べて破格の制作期間と予算を準備し、アダルトビデオの世界というグレーゾーンの世界(劇中では村西と警察の性表現にまつわるイタチごっこが続き、その時代の常識において行き過ぎた性表現を展開する度に村西が逮捕される)を描いた本作はNetflixという会員向け有料配信メディアだからこそ可能なドラマとして、SNSで話題となった。
 主演の山田孝之も積極的に他メディアで精力的に宣伝している、窮屈な時代だからこそ人間のありのままを描いた作品だという逆張りを展開し、その挑発的な宣伝も話題だ。

海外市場への目配せ

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