【特別対談】落合陽一×田川欣哉 〈人間〉という殻を脱ぎ捨てるために(前編)
今朝のメルマガは、takram design engineeringの田川欣哉さんと、『魔法の世紀』で知られるメディアアーティスト落合陽一さんの対談です。デザインとエンジニアリングのスペシャリストである2人が、人工知能、アルファ碁、そして、コンピュータによるパラダイム転換がもたらす、人間を中心としない新しい世界観のビジョンを語り合います。
▼プロフィール
田川欣哉(たがわ・きんや)
ハードウェア、ソフトウェアからインタラクティブアートまで、幅広い分野に 精通するデザインエンジニア。主なプロジェクトに、トヨタ自動車「NS4」のUI設計、日本政府の「RESAS-地域経済分析システム-」のプロトタイピング、NHK Eテレ「ミミクリーズ」のアートディレクションなどがある。日本語入力機器「tagtype」はニューヨーク近代美術館のパーマネントコレクションに選定されている。東京大学機械情報工学科卒業。英国Royal College of Art修了。LEADING EDGE DESIGNを経て現職。2014年より英国Royal College of Art, Innovation Design Engineering客員教授を兼務。
落合陽一(おちあい・よういち)
1987年東京生まれ。東京大学大学院学際情報学府博士課程を飛び級で修了し、2015年より筑波大学に着任。コンピュータとアナログなテクノロジーを組み合わせ、新しい作品を次々と生み出し「現代の魔法使い」と称される。研究室ではデジタルとアナログ、リアルとバーチャルの区別を越えた新たな人間と計算機の関係性である「デジタルネイチャー」を目指し研究に従事している。音響浮揚の計算機制御によるグラフィクス形成技術「ピクシーダスト」が経済産業省「Innovative Technologies賞」受賞,その他国内外で受賞多数。
【発売中!】落合陽一著『魔法の世紀』(PLANETS)
☆「映像の世紀」から「魔法の世紀」へ。研究者にしてメディアアーティストの落合さんが、この世界の変化の本質を、テクノロジーとアートの両面から語ります。(紙)/(電子)、取り扱い書店リストはこちらから。
司会:宇野常寛
構成:神吉弘邦
■ 『魔法の世紀』に辿り着くまで
宇野 落合さんが遅刻しているので、先に田川さんに少し打ち合わせ的に問題意識を共有しておきたい。
この本の編集を指揮していたときに思ったのは、コンセプトメイク的にちょっとずるいというか、チート的な本なんだよね。つまり、ほとんどのメディアアーティストは、与えられた情報環境の中で、それをいかに批評的に打ち返すかというゲームを強いられているんだけど、落合陽一は「既存のメディアアートはもはや無効で、これからは魔法的なテクノロジーを持ったアートだけが有効である。そのアートとはテクノロジーそのものである」というロジックで、さらに「俺はそれを自分で作っている」という論理構成になっている。これをやられると、同じことができない人は反論できないし、極論すると「研究してないやつはこの先アーティストとは呼べない」とすら言えてしまう。
ここに真正面から反論しようとすると、結構大変だと思う。落合君はアートがテクノロジーの発明ではなく、批評で成り立つ時代と状況のほうが特殊だったと言っていて、たとえば19世紀の印象派の登場や20世紀のキュビズムの登場は、ひとつのテクノロジーの発明だったと考える。だから「テクノロジーを開発しない表現行為が批判力を持つこと」がこの先もあり得るのかというレベルで戦わなきゃいけなくなる。ある人たちにとっては当然そうで、それ以外の人たちにはあり得ないことをめぐって論争することになっちゃう。そのせいで、すごく批判しにくい本になっていると思う。
田川 確かに、それはそうかもしれないね。最近『フェルメールの謎 ~ティムの名画再現プロジェクト~ 』というドキュメンタリー映画を観たんだけど、ティム・ジェニソンという発明家が、フェルメールの絵画の再現にチャレンジするという内容で、それがすごく面白かった。
フェルメールの絵画は本当に写真みたいで、カメラ・オブスクラを使っていたんじゃないかって説があるくらい。だけど、ティムさんは「きっとフェルメールは何らかのもっと高度なツールやテクニックを用いたに違いない」と考えて、当時から入手可能だったレンズや鏡を駆使して、フェルメールと同じような絵を描くための装置を作るんです。彼は一度も油絵を描いたことがないのでフリーハンドで描いたら下手くそなんだけど、その装置を使いこなすことで、フェルメールに近い絵を描いた。それをアートの大家に見せたらすごく喜んで、「本当にこれで描いたのかもしれないね」というコメントをもらうんです。
つまり、表現と技術は常に表裏の関係にあって、新しい表現を求める人たちが、新しいテクノロジーを探求してきた。そうやって、みんな出し抜きあいながらやってきたんだと思う。「この青色は彼にしか出せない」という絵の具が、有名な絵師の手元に秘蔵されていたという話もあるし。その意味では昔から一部のアーティストは、テクニックとメディアとコンテンツの間に区分を作らず、作品の表現面を作るだけじゃなくて、内部の技術的なこともやってきた。だから落合くんも、自分の作った機械でそこを目指すのかなと。
宇野 ずっと彼は「自分はグラフィックスの研究者である」と言っていて、やってることはセザンヌやピカソとあまり変わっていないというのが彼自身の認識なんだよね。
つまり、当時は平面のキャンバスに絵の具を塗るしか方法がなかったから、彼らの感覚にとってリアルなものを描こうとすれば、これまでとは異なった論理で平面を再構成する技法を追求するしかなかったけど、現代のテクノロジーを動員すれば、全く別のビジュアルを根本的に作り出すことができると思っている。
田川 僕が聞いてみたいのは、落合くんが物理現象にこだわる理由なんだよね。ピクセルに行かないじゃないですか。プラズマに触れられる「Fairy Lights in Femtoseconds」も身体性を前提にした作品で、そこには彼なりのエクスタシーがあるんだろうなと思う。
宇野 彼はそこは一貫していますね。初期のいわゆるメディアアートっぽい作品、ゴキブリを使った「ほたるの価値観」とか「アリスの時間」の頃からそう。ああいった作品を「テクノロジー自体がアートだ」と言うようになってから作らなくなったけど、そこは今も変わらない。
あとは場の制御の問題に集中するようになったのも大きい。「Pixie Dust」のあたりで、完全に人間がまだ体験したことのない感覚を発明する、という方向に行ったでしょう。メディア論的に気の利いたメッセージや「政治的に正しい」問題提起よりも「触れるレーザー」を実現してしまうほうが社会批評的にもインパクトがある。これが真のメディアアート、だと開き直りはじめた。
田川 光と音を分けなくてもいいという統一原理的な理解が、落合くんの中にあるときアブダクション的に降ってきたんだろうな。
宇野 一昨年の音波の研究が大きかったんだと思う。僕が最初にインタビューしたのはその頃なんだけど、それまでの彼の研究モチーフは、基本的には「三次元空間にいかに描画するか」に集約されていたと思うんだよね。シャボン玉にモルフォ蝶を描いて浮かべるような。そこには乾さんや藤井さんとの決定的な違いがあって、あの人たちは脳に電極を刺すことを考えているけど、落合くんは最初に会ったときからずっと「脳に電極を刺すことの先に行きたい」と言っていた。あれはちょうど「Pixie Dust」の原型になった音波で物体を浮かべる実験をやっていた頃だね。描画だけ、つまりビジュアルイメージの再構成だけだったら、脳に電極を刺したほうが早いと考える人はまだいると思う。
田川 それは『魔法の世紀』の巻末の作品集を見ていても、改めてそう思うな。おそらく、あるときから落合くんは表現することをやめたんだよね。それがすごく潔いよい。
宇野 本当はもっと美術プロパー受けする小賢しいメディアアートも作ろうと思えば無限にできる。でも、そういう方向には行かなかった。
田川 これは相当に凄いことで。彼は一度表現を捨てている。でも一方で、彼の研究は視覚芸術的に強烈なインパクトを持っている。実は、そこが強みだったりもする。だから逆説的なんだけど、純粋に表現として見たときに、それが審美的な意味での完成に到達したら、無敵感さえ出てくると思うんだよね。
宇野 最初に会った首からカメラを提げていた頃の落合くんの仮想敵って、やっぱりパースペクティブだったと思うのね。ピントの合っていない眼球からの情報を脳で再構成している人間の視覚体験に対して、パースペクティブ以外のロジックで構成された新しいビジュアルで介入すること。より直接的に、三次元の世界にアクセスできるビジュアルをつくるというのが、ずっと彼のテーマだったと思う。
遠近法の発明は、人類史における最大級の視覚体験への介入だったわけで、当初の落合くんはそれに勝てるレベルのハックを考えていた。だけど実際に出来上がったモノは、それよりもかなりヤバいものになっていて、もはや視覚イメージからは逸脱しつつある。それが『魔法の世紀』の「デジタルネイチャー」につながっている。
田川 ピカソもそうだけど、作家には「○○の時代」っていう区分があるからね。落合くんは今の自分の好奇心の整理が付いた後、どこに向かうのかな。
宇野 「Pixie Dust」から「魔法の世紀」までが「対パースペクティブの時代」で、そこから先はもうちょっと違うものになるんじゃないかな。
田川 従来のテーゼに対するカウンターとして「魔法の世紀」があるとして、それが一定の機能を発揮した後、彼がどんなテーマを設定するのかには興味がある。
落合 お疲れ様です!
(落合さん到着)
宇野 お、来た来た。では僕はもう黙るので、あとは田川さん、よろしくお願いします。
■ インタラクティブからは2011年に卒業
田川 「魔法の世紀」面白かったです。僕は落合くんと宇野さんの二人のことを知ってるから、二人で書いた本だな、と。宇野くん担当の教科書的によく書かれている部分と、落合くんが持っているコアなスピリットみたいなところがよく一冊にまとめられた本だと思って勉強になりました。表紙にちょっと昔の作品(「A Colloidal Display」2012年)が使われているじゃない。この本で書かれているのは、この写真以降の話が中心になっているよね。
ある瞬間を境に、落合くんの中で、ビフォー・アフターがクッキリ分かれているのかな。落合くんがどこかで表現をやめた瞬間が確実にあるな、と本を読んで感じたから、そこを最初に解説してほしい。
落合 俺はやることがガラッと変わったのが2011年。これ以降、俗に言うインタラクティブなことをやるのを一切やめたんですよ。あの年は震災もあったけど「インタラクティブ」というものが、かつての先鋭的なものから広告やMAKE的な表現に変わった瞬間だと思うんです。
それまで当時の中村勇吾さんが作っていたような作品がメチャクチャ評価されてインタラクティブ・ウェブメディアみたいなものもすごく見かけたのに、いつの間にインタラクティブで閉じた作品それ自体は「そういうのあったな」という感じになった。俺の変化か、社会の変化か分からないけど、チームラボもインタラクティブなものを作ることをやめてしまった。今までコンピュータ表現をやってきた俺はどこを目指すのか、考えた時期があったんです。
田川 僕にも同じくらいの時期にアクションという単位で行ったり来たりをカウントする表現自体が、少し古臭く見えた瞬間があった。
人間と機械のつながりをアクション単位で説明するよりは、場のポテンシャルの方程式みたいなことで、定常的に釣り合っている状態がいくつかあって、その落ち着き方がいろいろある、という理解の方が楽なんだろうと思って。
■ 人間中心論を超えていく
田川 落合くんにとってインタラクションが古臭く見えたのは、自分の創造性が「人間機械系」から「機械系」に移ったということなの?
落合 むしろ人間を機械で分解してやったら、結局は機械系の真理に落ちるんじゃないかという気づきがあったんですよ。人工知能がそのうち人間の仕組みを解明してくるとするならば、人間はどんな感じに分解されていくんだろうって。人間って部品だし、フィルターでできていると思うから。
人間もきっと、人工知能のディープラーニングと全く同じような方程式で記述されるようになる。そう思ったとき、「場」とか「物理」みたいなもので人間を捉え直していく表現手法があるだろうと思ったんです。そこが2011年。おっしゃるとおり、この年以降は「波」しかやっていないんですよ。
そこからの系譜にいったん区切りが付いたのが今年の頭で、今の俺の中での流行は「人間中心論を超えて場をどう捉えるか」になっているんです。
田川 音波も光も波として統一的な理解ができるけど、それに対して人間の知覚は統一的じゃないじゃない。音は鼓膜で聴くし、光はやっぱり目で捉えるしって。そして、その中で浮かび上がる知覚的イメージはお互いに断絶してて。面白いよね。
落合 色っていうのが一番ヘンなもの。おそらく自然界に存在しなくて、波長ベースの強度分布しかないにも関わらず、人間は赤とか青とか、全く違うものとして認識しているんです。本当はグレースケールで見えるはずじゃないですか。それなのに、波長をセパレートして混ぜ合わせるっていうオリジナリティの高いことをしている。
その人間の時間尺度とか空間尺度とか、振動に対する感覚って独特。人間って揺れているもの以外、知覚できないんですよね。目ですら動きがないと全く知覚できないから。
田川 落合くん、ロケットの打ち上げって見に行ったことある?
落合 1回あります。種子島で。
田川 俺もH-ⅡAを結構な至近距離で見たんだけど、あの時に、聴覚と体表の触覚が連続した瞬間を味わった。分かる気するでしょ?
落合 わかります。「あ、揺れてるんだ」って。体感で1Hzくらいの波!
田川 ドォォーーーッ!と来て、自分の身体が揺れる。「音って空気がリアルに振動するんだ!」みたいなね。人間は自分たちが日常生きてる時に、合理的に反応する感覚器だけが今残ってるけど、エネルギーの爆発的な放出を前にすると、人間の感覚器と、それに由来する知覚イメージの断絶は吹っ飛ぶと、その時に思ったんだよね。
落合 その合理的な反応ってきっと、生活の中に閉じ込められた弱いエネルギーたちの集まりなんで、結構セパレートされてる。
でも、強力なプラズマ場とか作ってやって、もう何だかわからない猛烈なエネルギーが出てきて、下手するとエックス線とかも出てるんですけど(笑)、そうなると「あ、人間にとってはこれは音でも光でも触覚でもない何かなんだな」みたいなのがあって、それが俺にとって面白かったんですよ。
田川 そういう意味では、全ては波と釣り合いで考え得るよね。
落合 まぁ、重力波まではそうでしょうね。
■ 人間機械系から、機械人間系へ
落合 しかし、場の釣り合いっていう話題が田川さんからも出てくるのがさすがっていうか慧眼ですよね。
田川 インタラクティブな、コンピュータの入ったプロダクトを作っていく時には、必ずそんなイメージで考えるわけ。インタラクティブではないプロダクトの場合にはなおさら、それが際立つ。
例えば今、僕がこの椅子に座ってるけど、自分の脚と椅子の脚とで合計6つの脚で着地をしていて、その地面と力の釣り合いを保っているわけで、僕と椅子は安定的に一体化しているよね。その安定状態を離脱して、次の安定状態に行くっていうのが「移動」とか「動き」ってことになる。
落合 状態遷移図で書く話になってくる。
田川 多分、全地球上に存在しているオブジェクトは、全部が状態の相関の中で理解できる。次、僕がコップを持つっていうところから鉛筆で書くっていうところまで、それで理解できる。
落合 そうですよね、場の釣り合いの動きだけで。
田川 人間機械系のモデルってさ、やっぱり通信速度とかCPUのクロック数とかセンシングの速度とか、ロジックが一回転するステップにすごい時間がかかってた時代の物差しだと思うんだよね。
だから、その時代の人たちのレイテンシー(遅延時間)に対する考え方も、やっぱりレイテンシーがあるからそれを意識するんだけど、もはやそれがゼロになった人たちってレイテンシーのことなんて考えないと思うんだよね。
落合 ああ、そうですね。
田川 人間の脳内でコンマ2秒くらいの認知の遅延が起こってる時に、それでも、刻々と変化する周囲の状況に対応するために、人間の側は先読みをしながら動く。つまり、人間の側は仮説モデルを頭の中に持っているから、プロダクトの側はできるだけそれに合わせた動きになるようにデザインする、というのが基本なわけじゃない。
全くそれが一致したとき、つまり、人間の脳内で構築されたモデルとプロダクトの動きのズレが完璧に一致したときに何が起こるのか。それは「釣り合っている」というイメージに近い。それを何と呼ぶのかっていう世界。釣り合ってるってことはさ、場的にいくと一体化してるわけ。
落合 一体化してますよね。安定状態にある。
田川 それともうひとつ大きな流れとしては、かつての人間機械系が、主客逆転で機械人間系に移っていくことなんだと思う。
そうなったとき、これは逆説的なんだけど、コンピュータサイエンティストたちは人間を理解するというフェーズに戻らなきゃいけない可能性がある。なぜなら、いわゆる関数として人間を見たときに「この人たちをどうやって命令通りに動かすのか」みたいなことで。
それは従来、政治家とかが取り組んできたことだと思うんだけれども、同じことをコンピュータサイエンティストたちが機械人間系をうまく機能させるために考えなきゃいけないのかもしれないね。全く新しいフィールドがなんか開けてくる(笑)。
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