「鏰児厅(ゲーセン)」から「網吧(ネットカフェ)」へ〜中国ゲームコミュニティの勃興|古市雅子・峰岸宏行
北京大学助教授の古市雅子さん、中国でゲーム・アニメ関連のコンテンツビジネスに10年以上携わる峰岸宏行さんのコンビによる連載「中国オタク文化史研究」の第5回。
今回は、1990年代ごろから「鏰児厅」(ブアル・ティン)と呼ばれたゲームセンターや攻略雑誌を核に発生したゲームファンたちのつくる「場」が、2000年代のインターネットカフェ「網吧」(ワン・バァ)の爆発的な普及を経て、様々なコミュニティを増殖させていく過程を辿ります。
古市雅子・峰岸宏行 中国オタク文化史研究
第5回 「鏰児厅(ゲーセン)」から「網吧(ネットカフェ)」へ〜中国ゲームコミュニティの勃興
これまでの連載で、中国にとって日本コンテンツの影響がいかに大きかったかを、第1〜3回にかけて『鉄腕アトム』、『トランスフォーマー』、『聖闘士星矢』等のアニメ作品を通して紹介してきました。
1990年代以前はテレビや連環画、以降はそれに加えてゲームや雑誌が消費者に大きく影響を及ぼしていました。第4回「VCDと情報誌が育んだ中国アニメ・ゲーム文化」でもお伝えしたように、中国ではゲーム雑誌が原作となる日本のアニメなどのコンテンツを紹介した土壌があります。ゲームを通して、原作コンテンツを知るという形式は、中国においても角川を筆頭とした日本のメディアミックス展開が成功した例として捉えられるでしょう。
しかし、2000年代にインターネットが普及したことにより、その状況も大きく変わっていきます。今回はゲームという切り口から2000年前後の中国の日本コンテンツ需要の過程を紹介したいと思います。
1.鏰児厅が培ったゲームセンター文化
かつて、現在の北京オリンピックメインスタジアム「鳥巣」のすぐ近くに、「北京康楽宮」という中国で最高峰の室内レクリエーション施設がありました。1990年設立、すべり台のある大型屋内プールやわざわざアメリカから取り寄せた26レーンもあるボーリング場、30のビリヤード台、大きなダンスホールに800名収容の劇場と、同時に1000人は遊べる国内最大規模の高級レジャー施設です。北京市民の平均収入が月900元弱[1]と言われるなか、そこで遊ぼうと思うと一人1000元はかかるため、北京市民にとっては憧れの場所でした。
そして同時に子供たちにも非常に人気の場所でした。なぜならゲームセンターがあったからです。ゲームセンターは北京の子供たちの間では「鏰児厅」(ブアル・ティン)[2]と呼ばれていました。「鏰児」は北京の方言で「メダル」、そして「厅」はホール、つまり「メダルホール」という意味です。
▲当時北京康楽宮で使用されていたメダル
▲1991年撮影された康楽宮。現在は48階建てのオフィスビルになっている。(出典:北京康乐宫拆了)
残念ながら、康楽宮内部の写真は見つかりませんでしたが、当時遊びに行ったことがある人から話を聞きました。魏然は今も日本ファルコム社の『英雄伝説 軌跡』(日本ファルコム・2004~)シリーズをこよなく愛し、最も好きなアニメは『金色のガッシュベル』、最も好きな漫画は『魔人探偵脳噛ネウロ』という、筋金入りの日本コンテンツオタクです。筆者・峰岸が北京で経営していたメイドレストランの常連でした。
「僕が初めて康楽宮を訪れたのは、小学1〜2年生の時(注:1993〜94年)だと思う。その時からゲームセンターはあって、メダルゲームなど様々な遊びがあった。」
北京で銀行に勤める魏然は、子供のころから様々な日本のゲームをプレイしてきた1980年代生まれの生粋の北京っ子です。
「メダルゲームの他に、体験系アーケードゲームの『ザ・ハウス・オブ・ザ・デッド』(セガ・1997)や『Nascar Racing』(セガ・2000)、シューティングの『1943ミッドウェイ海戦』(カプコン・1987)、3人でプレイできる『ナイツ オブ ザ ラウンド』(カプコン・1992)、『天地を喰らう』(カプコン・1989)があった。大人気だったのが格闘ゲームの『街覇』(別名『街頭覇王』、原題:ストリートファイターII、カプコン・1991~)や『拳皇』(原題:THE KING OF FIGHTERS、SNK・1994~)シリーズ。特に『街覇』は沢山のバージョンがあって、すごく楽しかった。それと『拳皇』の周りには本当に多くの人が集まってた。
昔はみんながみんなそんなにうまくなかったから、うまい人が来たら、みんなでお金出しあってクリアを手伝ってたんだよ。自分じゃラスボスまで到達できないからね。そうしてゲームやストーリーを楽しんでた人も多かったみたいだね。今のゲーム配信を見てる感じ。僕もその一人だったよ」
北京康楽宮は中国でもっとも高価な施設ですが、1990年代から2000年代、北京市内にある比較的規模の大きな鏰児厅だけでも磁器口の小白楼、団結湖の快楽島、官園の小児活動中心、北京展覧館の向い、北京藍島大廈の6階、北京人民大学裏手の夢幻などがあり、路地裏の2〜3台しかないような鏰児厅も含めるとそれこそ無数にありました。
2000年代に入ると、鏰児厅には『湾岸ミッドナイト』(ナムコ・2004)や『太鼓の達人』(バンダイナムコアミューズメント・2001)など、対戦系よりも体験系のゲームのほうが増えていき、現在ではゲームセンターの直訳である「游戏厅」という名称で北京のいくつかのデパートで稼働しています。
とりわけ『太鼓の達人』シリーズの人気は非常に高く、同シリーズを入り口にアーケードゲームに興味を持つ子供も増加するなど、ゲームセンターは仲間が集まる場としての役割を果たしました。その後、ゲームセンターが果たしたリアルなコミュニケーションの「場」としての役割は、パソコンの普及とともに比較にならない規模でオンラインに継承されるとともに、リアルにおいては飲食店や同人イベントへと移行していきます。鏰児厅は、こうして爆発的に増加することになるコミュニティの基礎を生み出したのです。
ゲームのプレイヤーが増え、接する時間が増えることによって、よりうまくプレイする方法やまだ見ぬ必殺技に興味を持つのはごく自然のことです。日本でも1980年代には田尻智が1983年に同人サークル「ゲームフリーク」を立ち上げ、グループや一個人がゲームの攻略情報を独自にまとめて発行していたように、中国でもゲーム熱が上がっていくことによって、攻略法を求めるプレイヤーの増加にともない、ビジネス的にも売れる攻略本が登場します。それがゲーム情報誌「電子遊戯軟件」のムック『格闘天書』です。
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