第二章 「寓話の時代」としての戦後――宣弘社から円谷へ(1) | 福嶋亮大『ウルトラマンと戦後サブカルチャーの風景』
文芸批評家・福嶋亮大さんが、様々なジャンルを横断しながら日本特有の映像文化〈特撮〉を捉え直す『ウルトラマンと戦後サブカルチャーの風景』。今回は、『月光仮面』『モスラ』『浮雲』といった50年代〜60年代初頭の作品群が、いかにして「帝国」の地理的想像力に裏付けられていたのかを読み解きます。
本連載が書籍になりました。
昭和が生んだ最大のヒーロー「ウルトラマン」。高度成長期の〈風景〉を取り込みながら、特撮というテクノロジーによって戦後日本人の願いを具現化しつづけた「光の巨人」は、先人たちから何を受け継ぎ、ポスト平成の現代に何を遺したのか——?
福嶋亮大『ウルトラマンと戦後サブカルチャーの風景』
第二章 「寓話の時代」としての戦後――宣弘社から円谷へ
1 大東亜の亡霊たち――ウルトラマンの前史
改めて言えば、私は昭和のウルトラシリーズには大きな断層が二つあり、そのそれぞれが時代相を映し出すものだと考えている。第一の断層は『ウルトラQ』における夢のシニカルな否定が、ウルトラマンという高度成長期の生んだ突飛なヒーローによって上書きされたことである(近代化)。第二の断層は『帰マン』から『A』にかけて、社会よりも心が、科学の夢よりも反科学的な怪奇性やオカルティズムが上昇したことである(ポストモダン化)。要は、公的な正しさや社会的なコンセンサスの代わりに、私的な妄想やスポ根的な身体性が際立ってくるのだ。
しかし、実はもう一つの大きな断層がある。それはウルトラシリーズ全体がそれ以前の、五〇年代から六〇年代初頭にかけての日本の地理的想像力を切断して出てきたということである。第一の断層(シニシズムから科学の夢へ)も第二の断層(社会から心へ)も、シリーズ以前のこの世界認識の変化の後に生じたものなのだ。そこで本章では歴史をもう一段階遡り、私の本業である文芸批評の分析手法も交えながら、ウルトラマンの「前史」のサブカルチャーを輪郭づけてみたい。結論から言えば、それは戦時下の「大東亜」の記憶と深く関わっている。
宣弘社の男性ヒーロー
戦後のテレビヒーローの歴史を考えるとき、ウルトラシリーズ以前に宣弘社プロダクション制作のテレビ映画があったことは重要な意味をもつ。『月光仮面』(一九五八〜五九年)、『豹〔ジャガー〕の眼』(一九五九〜六〇年)、『快傑ハリマオ』(一九六〇〜六一年)といった宣弘社のヒーローものは、戦後の草創期のテレビのなかに、戦前・戦中の日本の地理的想像力を呼び込んだユニークな作品群であった。
もともと、宣弘社は社長の小林利雄の指揮のもと、敗戦直後にネオン、駅広告、シネサイン、街頭テレビ、ビルボード等を精力的に手がけた広告会社であり、戦後日本の都市風景の形成にも大きな貢献をした。例えば、宣弘社が銀座で展開したクリスマスのデコレーションはその後日本の冬の風物詩となり、一九五一年に小林の依頼で作られた猪熊弦一郎《自由》は(良い絵かどうかはともかく)今日のパブリック・アートの先駆的作品として、現在でも上野駅中央改札を飾っている[1]。さらに、宣弘社は『ウルトラマン』にも広告会社として関わっており、TBS、円谷プロ、スポンサーのあいだの関係を取り持つことになった。
だが、ここで面白いのは、小林がたんなる広告業者で終わらず、ハリウッドの視察をきっかけに「宣弘社プロダクション」を創設し、草創期のテレビ映画の制作にも乗り出したことである。広告からコンテンツへのこの「越境」の結果として、川内康範が原作と脚本を担当し、プロデューサーの西村俊一がキャラクターの奇抜なデザイン(バイク、ターバン、サングラス……)を構想した『月光仮面』が日本初の本格的な「国産テレビ映画」として一九五八年に放映され、誰もが知る大ヒットとなる。「憎むな!殺すな!赦しましょう!」という『月光仮面』の有名な寛容のテーマは、苦い敗戦を経た戦後日本の理想を示したものでもあっただろう。
川内康範もまた、宣弘社とは別の意味で「越境」を繰り返した人物である。彼は駆け出しの頃に東宝の演劇部の秦豊吉(丸木砂土)のもとで修行し、人気絶頂の喜劇役者古川ロッパや榎本健一(エノケン)らとも知り合うとともに、後にはそのマリオネット劇の知識を円谷英二に買われて、東宝の戦時下の人形劇映画『ラーマーヤナ』の脚本を担当するという具合に、師匠の秦にも似た脱領域的な才人であった(後には歴代首相との交友でも広く知られる)。その川内が「脇仏」の月光菩薩をモチーフにした月光仮面について、「正義」そのものではなくあくまで「正義の味方」だということを――アメリカのスーパーマンのような「超人」ではなく「神でも仏でもない、あくまで人間」だということを――後年のインタビューで強調していたのは、文化史的に見てきわめて興味深い[2]。
現に、この控えめな男性ヒーロー像は「生涯助っ人」を信条とした川内自身に留まらず、『七人の侍』(一九五四年)や『隠し砦の三悪人』(一九五八年)、『用心棒』(一九六一年)等で「助っ人」としての三船敏郎を撮り続けた黒澤明の映画、さらには戦後のアニメの代表作でも反復された。例えば、宮崎アニメの少年は自分が超人になるのではなく、常に少女を助ける「正義の味方」(高畑勲の評を借りれば「エスコートヒーロー」)であろうとするのであり、その限りで月光仮面の系譜に属していた。男の主役が正義の脇役(用心棒)に甘んじることで、かえってヒーローになり得るというこの『月光仮面』的な逆説には、戦後日本の男性性の構造、特にその屈折したナルシシズムが表出されていたのだ。
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