福嶋亮大『ウルトラマンと戦後サブカルチャーの風景』第五章 サブカルチャーにとって戦争とは何か 1 敵のいない戦争映画(2)【毎月配信】
文芸批評家・福嶋亮大さんが、様々なジャンルを横断しながら日本特有の映像文化〈特撮〉を捉え直す『ウルトラマンと戦後サブカルチャーの風景』。日本の戦後サブカルチャーと「戦争」について論じた前回に続いて、今回は「敵」が消滅した日本の戦記映画の特徴を、アメリカのそれと比較しながら語ります。
敵を抹消する技術
戦後になっても、国策映画におけるホモソーシャルな友情は、政治的に無害な美学として受け入れられた。山本や円谷とともに出席した一九六八年の座談会で、森岩雄が『加藤隼戦闘隊』について「よくできていますね。米英がどうなんて言葉は一つもないし、加藤隼戦闘隊長と隊員との間の人間的つながり、戦争に対する人間的なつながりというものを描いていますね」と評したのは、製作者自身の牧歌的な意識をよく示すものである[9]。この見方そのものは正しいとはいえ、それは「戦争映画」としてはひどく奇妙なものだと言わねばならない。『加藤隼戦闘隊』は確かに円谷の特撮を介して男たちの「人間的つながり」を強調していたが、それは敵の抹消と表裏一体なのだ。コミュニケーションの範囲は「友」に限定され、「敵」には及ばない。
このような傾向は、円谷が特技監督を務めた戦後の東宝の「戦記映画」でも変わらなかった。一九五〇年代から六〇年代にかけて製作された『太平洋の鷲』、『さらばラバウル』、『太平洋の嵐』、『太平洋奇跡の作戦 キスカ』等では、いずれも男どうしの絆が強調されている。なかでも松林宗恵監督の『太平洋の嵐』(一九六〇年)は円谷の特撮によって真珠湾攻撃を再現しつつ、ミッドウェー海戦で戦死した日本の軍人たちに、海底に沈む生霊のような姿を与えた。それは一種の「鎮魂」の映画ではあるが、日本が何のために戦争をしたのかは語られず、アメリカという敵の論理にも関心が払われない。
考えてみれば、これらの「太平洋」を冠した一群の戦記映画のタイトルは、一九四五年十二月に「大東亜戦争」の使用を禁止し「太平洋戦争」という新しい呼称に置き換えたGHQの占領政策にきわめて忠実である(江藤淳によれば、この名称の変更は「戦争に託されていた一切の意味と価値観」の変造を伴っていた[10])。ゴジラやモスラから『ウルトラマン』のゴモラに到る特撮の怪獣たちも「大陸」ではなく「太平洋」に出自をもつが、これも占領下の概念操作と無関係ではない。しかも、『太平洋の鷲』や『さらばラバウル』の空戦場面は、米極東空軍司令部から戦時の映像を借りて作られていた。戦後の日本映画は、勝者のアメリカから与えられた戦争名と地域と映像によって、自分たちの戦争を総括せざるを得なかった。
大島渚は「敗者は映像を持たない」という七〇年代前半の刺激的なエッセイのなかで「私たちの映像の歴史は、どんな映像が存在したかということより、どんな映像が存在しなかったかということの歴史なのである」と鋭く指摘している[11]。このような「映像の不在」への注目は、日本の特撮映画について考えるときにも必須だろう。『ハワイ・マレー沖海戦』以来のスペクタクル的な特撮の背後には、敵の現実を映像化することへの徹底した無関心が潜んでいた。円谷の技術は軍艦や戦闘機を魅力たっぷりに再現することによって、かえって人間としての敵を抹消してしまったように見える。
さらに、戦後の戦記映画になると、実写(現実)と特撮(虚構)のバランスが崩れていくことも見逃せない。円谷自身が不満を漏らしているように、『ハワイ・マレー沖海戦』では飛行機や航空母艦の実写撮影を使用できたのに対して、戦後の東宝の『太平洋の鷲』や『太平洋の嵐』になると、本物の兵器ではなくセットが主になり、かつ予算やスケジュールにも制約があったため、演出上の「チグハグな面」が露呈してしまった[12]。押井守が戦争の虚構性を訴えるまでもなく、そもそも特撮戦記映画というジャンルそのものに、トリック映像の不自然さを隠し損ねた面があったわけだ。逆に、乾いたスピーディな演出を得意とした岡本喜八監督が、東宝の『激動の昭和史 沖縄決戦』(一九七一年)のような戦記映画で独自の作家性を確立し得たのは、チグハグになりかねない戦闘場面をリズムやテンポの力で巧みに処理したからではないか。
戦争画と戦争映画
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