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勇者シリーズ(5)「伝説の勇者ダ・ガーン」(後編)|池田明季哉

デザイナー/ライター/小説家の池田明季哉さんによる連載『"kakkoii"の誕生──世紀末ボーイズトイ列伝』。
今回は「谷田部勇者」シリーズ最終作にあたる『伝説の勇者ダ・ガーン』について分析します。近代的国家観への反省とグローバリズムが進行した1990年代に登場した、同作のロボットたちが提示した21世紀的モチーフとは?
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池田明季哉 “kakkoii”の誕生──世紀末ボーイズトイ列伝
勇者シリーズ(5)「伝説の勇者ダ・ガーン」

■空と陸、そして文明の外側

原点から自身を相対化しながら拡張していく形式は、この後に加わる勇者について考えることでより鮮明となる。セイバーズに後に加わるホークセイバーは、その名前通り鳥の姿をモチーフとしている。旅客機・戦闘機・スペースシャトルの並びに鳥が加わることは、一見不統一なように思われる。ところが自己の生活空間を基準とした世界の拡張と考えれば、これは別の理解ができる。すなわちホークセイバーが象徴しているのは鳥の世界だ。スペースシャトルは宇宙の領域までを射程に収めるが、ダ・ガーンは地球を単なる空間としてではなく、さまざまな存在を内包する「世界」として描く。それはこの世界に生きる人間である自身を相対化し、鳥もまたこの空に暮らしている――という星史少年の認識そのものの拡張だ。ホークセイバーはスカイセイバーと合体し、背中に翼を備えた人馬の姿を持ったペガサスセイバーとなる。玩具としても珍しい傑作ギミックであるが、人と鳥が一体となったその姿は、まさにこうした想像力の象徴として適切だろう。

さらにこれはガ・オーンへと至る。ガ・オーンは本作における「2号ロボ」であるが、そのモチーフは独特かつ複雑である。まず、第一のモチーフは見るからにライオンであり、物語上もガ・オーンが眠っていたのはアフリカのキリマンジャロと設定されている。ホークセイバーが星史少年の鳥への思いやりから復活したのに対して、ガ・オーンはアフリカの大地に生きる獣たち――具体的にはゾウやキリンなど――の祈りを受けて目覚める。百獣の王たるライオンというモチーフは、獣の守護者として神格化されるにぴったりだろう。黒・赤・白・黄・緑というコントラストがはっきりしたカラーリングもアフリカ的だ。

一方で驚くべきことに、ロボット形態のデザインは明らかに「インディアン」をモチーフとしている。アメリカン・インディアンあるいはネイティブ・アメリカンと呼ばずにこの言葉をあえて使うのは、ガ・オーンのデザインは明らかにそうした認識のアップデート前、「インディアン」という言葉でしか表せない旧い概念を参照しているからだ。大きく広がったライオンのたてがみはウォーボンネットを思わせるし、顔に施された二列一対のペイントは戯画化された古典的な「インディアン」のそれである。さらに武器には「ガ・オーントマホーク」が含まれ、単語を並べて片言で喋り、挙げ句の果てには星史のことを「酋長」と呼ぶのである。

▲「獣王合体ガ・オーン」。特徴的なフェイスペイントが見て取れる。玩具としては電動ギミックが組み込まれた野心的な作品。勇者シリーズトイクロニクル(ホビージャパン)p20

このことはどう考えればいいのだろうか。こうした描写が現代では差別的と扱われるようになったことに異論はないが、それは本題でないためいったん議論から外すとして、ガ・オーンを通じて描かれようとした想像力はどのようなものだったのだろう。

『伝説の勇者ダ・ガーン』という作品自体が、90年代的なエコ思想を背景としていることはすでに述べたし、それが20世紀的な文明社会の野放図な発展とマスキュリニティを批判する性質を持っていたことも議論してきた。

その観点から見れば、ガ・オーンのモチーフが持つ奇妙な複合――アフリカの動物とインディアンの文化は同じカテゴリに入れることができる。アフリカの大自然は人間の活動によっていまだ破壊されざる聖域であるし、自然と深く結びついたインディアンの文化はアメリカの開拓によって民族ごと破壊された。つまりそれは20世紀的なもの――ダ・ガーンが象徴する「都市=文明」と対置される「自然」の概念なのだ。

この連載では、谷多部勇者においてグレート合体は対立するふたつの概念の統合を意味していると読み解いてきた。グレートエクスカイザーが「西洋と東洋」、グレートファイバードが「地球と宇宙」の統合だとするのなら、ダ・ガーンとガ・オーンの合体によって構成されるグレートダ・ガーンGXは「文明と自然」の統合と見ることができる。

▲「伝説合体グレートダ・ガーンGX」。ダ・ガーンをベースにした整ったプロポーション。この形態でも電動ギミックは生きている。勇者シリーズトイクロニクル(ホビージャパン)p22

遡ってダ・ガーンにおいて戦闘機と新幹線をモチーフにしていたことも、より一段掘り下げて考えられるようになる。上半身を構成するのが単なる航空機ではなく戦闘機でなくてはならなかったのは、それが暴力装置としての「銃」のニュアンスを含んでいなければならなかったからだし、アメリカにおいては「トラック」に象徴されたような都市の生活を支える交通・ロジスティクスは、日本においては鉄道が、そしてその最先端の形式としての新幹線が当てられる。

我々はここで、勇者シリーズがトランスフォーマーの日本的ローカライズから出発していたことを思い起こすことができるだろう。トランスフォーマーが追求したアメリカン・マスキュリニティのルートが、21世紀において行き詰まってしまったことはすでに分析した。そのアメリカン・マスキュリニティを批判的に捉えながらも独自に発展させ、玩具と子供の関係を追求することによって中間性の美学に至ったルートが、勇者シリーズとして90年代の時点で確立されていたのである。

■20世紀における悪とその相対性

そう考えると、敵についても興味深い読み解きができるようになる。オーボス軍には4人の幹部(最終盤に5人)が存在するのだが、技術至上主義の軍人であるレッドロンはドイツを、サーカス団の団長にして巨体のレスラーであるデ・ブッチョはロシアを思わせる。レディ・ピンキーが搭乗する人形をモチーフにしたロボットはフランスのハイファッションブランドをモチーフにした名前が与えられている。ビオレッツェは少々手がかりに乏しいが、名前の響きや猫との結びつき(『ゴッドファーザー』におけるマーロン・ブランドなど)を考えれば、イタリアのイメージで見ることもできなくはない。一方でオーボス最大の部下として現れ、UFOの姿からドラゴンの姿へと変化するシアンは、ほとんど暴力性そのものの具現化であって、こうした枠組みに収めることは難しいだろう。

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