第3回 イシュードリブン時代のプラットフォーム論 | 落合陽一
今朝の「魔法使いの研究室」では、『魔法の世紀』の第3章「イシュードリブンの時代」を取り上げます。コンテンツがプラットフォームの共有圧の下で力を失った時代、どうすればその支配から逃れらるのか。プラットフォームの外部を指向する「イシュードリブン」という考え方を取り入れた、新しいクリエイティビティのあり方を提示します。
落合陽一自身が読み解く『魔法の世紀』
第3回 イシュードリブン時代のプラットフォーム論
▼『魔法の世紀』第3章の紹介
「プラットフォーム」という新しい仕組みが台頭し、ウェブのみならず都市までもがコンテンツを内包する巨大なプラットフォーム構造として存在するようになった時代、その外部を射程に含めた「全体批評性」を獲得するには、いかなる方法がありえるのか。現代アートやコンピュータ科学の世界で見出された手法、「問題を発見し、問題を自ら解く」をヒントに、プラットフォームに取り込まれない作品や表現のあり方を考えます。
◎構成:長谷川リョー
▼プロフィール
落合陽一(おちあい・よういち)
1987年東京生まれ。東京大学大学院学際情報学府博士課程を飛び級で修了し、2015年より筑波大学に着任。コンピュータとアナログなテクノロジーを組み合わせ、新しい作品を次々と生み出し「現代の魔法使い」と称される。研究室ではデジタルとアナログ、リアルとバーチャルの区別を越えた新たな人間と計算機の関係性である「デジタルネイチャー」を目指し研究に従事している。
音響浮揚の計算機制御によるグラフィクス形成技術「ピクシーダスト」が経済産業省「Innovative Technologies賞」受賞,その他国内外で受賞多数。
まずは前回のおさらいから始めます。『魔法の世紀』の第2章のテーマは「心を動かす計算機を作る」でした。その中で「心を動かす計算機」として挙げたのが「メディアアート」です。
メディアアートについて、単に、電気やコンピュータを使ったサイバーチックなアートのことだと思っている人がいるかもしれません。油彩画を描いているような芸術家が僕の作品を見たら「低俗な!」と怒り出すかもしれない。
しかし、問題はそこではないのです。絵画が芸術の中心だった時代、画家のやるべきことは「絵を描くこと」であり、その定義は明確でした。しかし、現在の画家は「絵を描くこと」自体を疑うことなく、素朴に絵を描くのは難しい。芸術家は「なぜ私はこういう表現をするのか?」という目的の前提を考えなければならないのです。
人間がインターネットによって同質化される時代においては、「技法」と「表現」の両方を発明しなければ、訴求力を持てません。現在は「メディアの部分」と「アートの部分」がせめぎあっている時代で、そこでは「テクノロジー」が非常に重要なパートになる。これが前回までのお話でした。
■「イシュードリブンの時代」では“問題設定”そのものが重要になる
今回取り上げる第3章のタイトルは、「イシュードリブンの時代」です。「イシュードリブン」という言葉は、安宅和人さんの著書『イシューからはじめよ―知的生産の「シンプルな本質」』の中で使われていて、とてもいい言葉だったので第3章のタイトルに使わせてもらいました。アクションドリブン、カスタマードリブン、デザインドリブンといった「〇〇駆動」を意味する言葉がありますが、その一種としての「イシュー(問題)ドリブン」です。
イシューとは「問題や論点」のことです。安宅さんのこの本には「問題を解くことよりも、どのような仮説を立て、どうやって問題を組み立てていくのかの方が重要である」ということが書かれています。
『魔法の世紀』では、この考え方を援用して、プラットフォームの外部に立つ方法を論じています。それは「問題」と「解法」を同時に内包するコンテンツを作り出すこと。まだ世の中に存在していない問題をコンテンツが発見し、それに対する解法を生み出していくということです。「何をどうしたのか」の「何」の部分にあたる問題設定が、極めて重要な時代になってきている。今日はそういう話をします。
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