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『サザエさん』のマトリックス化

それはもう、何年も前のこと。日曜日の夕方、私は何気なしに『サザエさん』の放映を眺めていた。

いつもと変わらぬ、磯野家のゆるやかな日常がそこにはあった。卓袱台を囲み、誰もが笑っていた。
しかし、突然に空気は一変する。カツオがこんな不穏発言を切り出したからだ。
「父さん、なんでボク、こんな変な名前なの?」
カツオはその日、学校で級友たちから「お前の名前って、魚類な」的なことを言われて、ショックを受けたのだという。
「ねえ、なんで『カツオ』なんて名前にしたのさ?」
詰め寄るカツオ。凍りつく茶の間。あ、まずい、と思った。

磯野家のメンバーたちが海の生き物になぞらえた名前で統一されていることは、今さら説明するまでもなく、フォーマットの話である。初期設定プログラムである。ところがそのプログラムの中のキャラであるカツオは、ここにきて「そういえばどうしてボクの名前って魚なんだ…?」と疑問を覚えたのだ。
「大変だ、気づき始めている……」
私は背筋が寒くなるのを感じた。

それからまた何年か経った頃。公園のシーンが『サザエさん』に映し出された。
イクラちゃんが砂遊びをしている。なんの変哲もない、お馴染みの光景。
そこに突然、イクラちゃんと同い年の女の子が登場、達者なお喋りを展開しはじめた。するとその様子をそばで眺めていたタイコさんが、こんな疑問をつぶやいた。
「うちの子って、言葉が遅いんじゃ…?」
このセリフにはもう、崩壊の序曲が含まれていると私は確信した。
イクラちゃんが「はーい」「ちゃーん」「ばぶー」の三つしか喋れないのは、もちろん初期プログラムがそうなっているからである。
ところが「同い年の女の子」という予期せぬノイズが走ったことで、タイコさんは「あれ?そういえばなんでイクラちゃんって、三つしか喋れないの…?」とクエスチョンを浮かばせたのだ。
ああ。私は頭を抱えた。
『サザエさん』の登場キャラたちはいま、「自分たちは実は他人の手によって作られたプログラムの中にいる…?」と感知し始めている。マトリックスと同じ観念が、そこに生まれようとしていた。

『サザエさん』の世界は、ある時からアップデートが止まっている。その世界では、スマートフォンはおろか、携帯電話でさえ誰も持っていない。改札のシーンを見るかぎりICカードも存在していないし、SNSやAmazonなどの概念だって及んでいない。
おそらくだが、セキュリティソフトも更新されていなかったのだろう。そこに目を付けられ、『サザエさん』の世界にはウィルスが侵入するようになった。ノイズが走るようになった。それが先ほどの「同い年の女の子」だ。ノイズは『サザエさん』の登場人物たちに、気づきを与えようとしている。「あなたたちは、仮想現実プログラムに閉じ込められている」、と。
中島の存在もかなり怪しい。海関連の名前で統一されたフォーマット世界において、妙に平凡な名前で佇む、中島。彼は頻繁にカツオを「野球しようぜ」と外に連れ出す。外にはお前の知らない世界線が存在する、とばかりに、執拗に「野球しようぜ」と磯野家の玄関に現れる。中島もまた、ノイズである可能性が高い。
もし磯野家が私たちの存在しているこちらの現実世界に気がついてしまったら、何が起こるだろう。想像するのも恐ろしいが、たぶん最初に三河屋のサブちゃんが消滅すると思われる。
サブちゃんは『サザエさん』世界において、迅速に商品を届けるコンテンツとして存在している。だから、Amazonという概念に『サザエさん』が触れた時、三河屋のサブちゃんは存在そのものが不要となる。「イママデ、アリガトウ…」と言葉を残して、足元から糸がほつれるようにして消えてしまうサブちゃん。勝手口には、代わりにAmazonの箱だけが残る。そしてみんな、サブちゃんのことを忘れてしまう。
『サザエさん』がアップデートされてしまうと、こういった空恐ろしい事態が起こる。

イクラちゃんはなぜ三種類の言葉しか喋れないのか。タイコさんが疑念を抱いてしまったその回では、後にこんなシーンへと展開が及んだ。
「イクラちゃんに、『はーい』『ちゃーん』『ばぶー』以外の言葉を、喋らせてみよう」
終わった、と私は思った。彼らは完全に、気づきの道を辿り始めてしまった。自分たちが、フォーマットの中の世界に生きている者たちなのだということに、確信を持つに至ってしまった。
イクラちゃんに三言以外の言葉を喋らせようとする、画面の向こうの皆の姿を、私は祈るような気持ちで眺めていた。頼む、やめてくれ。これ以上プログラムを強く刺激すると、誤作動が起きる。イクラちゃんが突然、「緊急事態発生!緊急事態発生!」とか「…長い夢を見ていたようだ」とか「こんばんは、森進一です」とか言い出す可能性は、大いにある。

いや、もっと最悪のシナリオだって想定できる。突然、ピロピロピロという電子音を発するイクラちゃん。慌てふためく、磯野家の面々。そしてイクラちゃんは、突然に白目をむいたかと思うと、ざっざっざっとテレビを観ている我々の方へと近寄り、そして画面に両手をはりつけて、こう叫ぶのだ。

「おい!そ、そこにいるんだろう!?頼む、ここから出してくれ!!」

私は息をするのも忘れ、その日の「サザエさん」を、眺めていた。

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