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「梓弓」に恋をして


梓弓
とは、梓の丸木を削り出し作られた弓であり、古来から神事や儀式に使われてきた神聖なものです。単なる道具としてだけでなく、和歌の世界においても重要な役割を果たしてきました。

特に、枕詞として用いられる梓弓は、歌に深みと美しさを与え、様々な感情を表現する重要な要素となっています。例えば、『万葉集』や『伊勢物語』など、多くの作品で梓弓は恋愛の歌に用いられ、男女の切ない想いや、叶わぬ恋の苦しみを表現しています。
梓弓が持つ神聖なイメージと、恋愛という普遍的なテーマが融合することで、和歌はより一層深みを持ち、読者の心を強く揺さぶります。




1. 枕詞とは


和歌の表現技法の一つに「枕詞(まくらことば)」というものがあります。まずは、枕詞の定義について、Wikipediaを引用してみます。

枕言葉(まくらことば)とは、主として和歌に見られる修辞で、特定の語の前に置いて語調を整えたり、ある種の情緒を添える言葉のこと。

Wikipediaより引用

枕詞は、常に特定の語(被枕)を修飾することで、より豊かなイメージを呼び起こしたり、言葉の響きを美しくする働きがあります。枕詞の多くは五音で構成されているので、第一句か第三句に入るのが基本です。

有名な枕詞に「ちはやぶる・ちはやふる」があります。「荒々しい、勢いが激しい」といった意味であり、その壮大さから「神」や「宇治」にかかる枕詞として使われます。

ちはやぶる 神代も聞かず 竜田川
から紅に 水くくるとは

【現代語訳】
さまざまな不思議なことが起こったという神代の昔でさえも、こんなことは聞いたことがありません。竜田川が(一面に紅葉が浮いて)水を真っ赤な紅色に染めているとは。

『百人一首』17番  在原業平

百人一首のほか、古今和歌集や伊勢物語にも収録されているため、非常に馴染みのある歌です。
この歌では枕詞としての「ちはやぶる」が「神」にかかっています。
「ちはやぶる」そのものを訳すことはできませんが、神々の力強さや神聖さを強調するために用いられていると考えられます。

枕詞は、現代では「直接的な意味がない言葉」として訳されないこともしばしばですが、和歌をより美しく見せるための重要な要素であることは間違いありません。


2. 梓弓が紡ぐ恋の歌

ここからが本題です。
梓弓は、「引く」「張る」「射る」などにかかる枕詞として恋の歌にしばしば使われます。例えば、「梓弓を引く」という動作が、恋心を「射る」、あるいは気持ちを「引く」イメージと結びつき、相手への強い想いを表現するのに使われます。また、「梓弓を緩める」という動作が、恋の切なさや苦しみを表すこともあります。

以下では私が愛してやまない梓弓を用いた恋の歌を三首紹介します。


・久米禅師と石川郎女の相聞歌

梓弓 引かばまにまに 寄らめども
後の心を 知りかてぬかも

【現代語訳】
(梓弓を引くように)私の心を引いてくだされば従いましょう。しかし、後々とあなたの心がわかりかねるのです。

『万葉集』2巻-98 石川郎女

久米禅師(くめのぜんじ)からの求婚に対して石川郎女(いしかわのいらつめ)が詠んだ返歌です。
久米禅師の求婚に気持ちが傾きつつも、その後の心変わりを不安に思う気持ちを歌っています。気持ちが引かれる様が「梓弓 ひかばまにまに」の部分から読み取れます。全五首から成る二人の相聞歌(恋の歌)は、非常にロマンチックです。


・作者不詳の歌

梓弓 引きみ緩へみ 来ずは来ず
来ば来そをなぞ 来ずは来ばそを

【現代語訳】
梓弓を引いたり緩めたりするように、来ないなら来ない、来るなら来るとはっきりしてください。来るのですか、来ないのですか。

『万葉集』11巻-2640 作者不詳

こちらも恋愛の歌ですが、曖昧な態度をとる男性への苛立ちが読み取れます。梓弓を引いたり緩めたりする動作は、男性の優柔不断な態度を的確に表現しています。恋焦がれる女性の切実な気持ちが、早口言葉のようにせつせつと伝わってきます。


・伊勢物語の有名な章段

梓弓 引けど引かねど 昔より
心は君に よりにしものを

【現代語訳】
あなたが私の心を引こうが引くまいが、昔から私の心はあなたに傾いておりましたのに。

『伊勢物語』 第24段「梓弓」作者不詳

昔、辺鄙な田舎に男が住んでいました。男は「宮廷に出仕する」と言って女を残して出ていきました。三年間女は待ちわびていましたが、男は一度も訪れません。女は待ちくたびれて、熱心に求婚してきた人と「今夜一緒になろう」と約束をしますが、ちょうどその夜に男が戻ってきます。
男は女が別の人と結婚することを知り、「長い年月の間わたしがしたように、その人と仲良く暮らしなさいよ」と詠んで立ち去ろうとします。そこで女は、男を引き留めようと上記の歌を詠みますが、男は身を引いて去ってしまいます。
女は男の後を無我夢中で追いますが、追いつくことが出来ずに、清らかな水の傍らで息を引き取ります。
男が詠んだ祝福の歌は、三年間の月日を飛び越え、女の恋心を呼び起こします。物語は悲劇的な結末を迎えますが、時を超えた強い想いが確かに感じられます。


和歌は人の心を映す鏡です。
恋愛という普遍的な題材が多く詠われているのも、繊細な心の動きを表現できる力があり、それが多くの人に親しまれてきたからに他なりません。あなたも美しい和歌の世界に浸ってみませんか?


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