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人と哲学 詰まるところ「共生」って何?

   よく聞く言葉になったけれど・・・。



「共生」ってよく聞く言葉になったけれど・・・。今さらのようだが「共生」ってどういうことだろう。

 「戦争」が起きた。どちらも譲らない。錯綜する現実、大量の情報、そしてあれこれと状況の分析がTV、ネットで行われる。日本で小麦粉や燃料の心配がされていたと思ったら、もっと幅広く深刻な状況になっている。ただでさえ新型コロナのために、あらゆる不自由が、一般の生活に、仕事に、そして文化、芸術等に降りかかっているのに。固唾(かたず)を呑むように、日々の成り行きを心配と不安に紛れているが、戦地の人びとにとってはそんなものではない。

 領土のため=祖国のために命を張る。分かるけれども、それをいつまでも続けていける時代ではなくなっていると僕は思うのだ。有効な手立ては?と考えもするが、まず人が仲良く、平和に行き交う世界を考えてからにしよう。今回は「共生」について、思いを馳せたい。

 例えば論語には「共学」という語が出てくる。しかし、「共生」の言葉については、古く遡ることはできないらしい。現代中国語では、生物学や地学等でも使われ、すでに一般化しているそうだが。共に生きると書く。こういう発想というか、考えは新しいものなのだろうか。

 英語だと、Symbiosis(シンビオーシス)だろう。この言葉は、古くギリシャにおいてすでに用いられていることが分かっている。多文化とか、他民族とか、いきなり出てくるみたいで、ちょっとびっくりする。しかし、共同生活を意味すると思えば、フランスからきたcohabitation(仏:コアビタシオン、英:コハビテイション)でもいいということになる。

 英語でも仏語でもhabitationという語があり、英語ではinhabitは「住む」という意味だが、ラテン語から生まれた言葉だ。仏語に詳しい人の話だと、コアビタシオンは、フランスでは政治の場でよく使われるそうで、例えば国民投票の大統領と議会投票の首相の所属政党が異なった場合に問題になるそうだ。その意味では英語でもこの語に政府内協力という意味をあてることがあるから、英仏ほぼ同様の使われ方があると考えてよい。もっとも同棲という意味もあるので、もっと気軽に、日常語と考えていいだろう( ´艸`)。

 そういうわけで、生物学なんかではシンビオーシスということになる。古代ギリシャとは異なり、今は地球規模でものをとらえる時代、グローバルな時代である。いつまでたっても戦火は絶えないし、先行きどうなることか深刻なグローバル世界になっている。お互い、協力して、平和を求めるには、シンビオーシスの言葉を用いるのが良さそうだ。良さそうだけれども、深追いするのはやめて、話を進めよう。

 世を支配する権力を担う人々に、そうした発想が乏しいということになれば、昔のポリス国家の歴史を刻んだ人々の智恵を蹴飛ばした不届き者、言い換えれば「人民」「国民」「市民」の名が泣くのである。どちらが有利だとか、反民主的だとか、それ自体には意味もあるが、肝心かなめのコアビタシオンの発想が乏しいままでいいわけがない。

 コアビタシオンの語が、共に住むという意味を持つ(ギリシャ語だとbioが住むという語に当たる、Symbiosisだ)点からみるならば、異文化を理解する以前に、そもそも共同の場に「住む」ことへの認識が問われそうである。住むことが前提されれば、当然相互協力が必要になってくるのであって、そこに「連帯」の意義が生じてくるだろう。
 
 「連帯」の語の意味は、「ふたり以上の人が同一内容の事に共同の責任を負うこと」(廣漢和辭典下巻)であると認められている。「共同の責任」と書いてあるところは要注意だ。「連帯」の語が使われるようになったのはせいぜい明治以後のことのようだが、「廣漢和辭典」に従うなら、これはフランス語あるいは英語を翻訳する過程で生まれたと考えられる。

 何故なら、solidarity(連帯)には、共通の責任や利害から生じる団結というか、結束の意味があるからだ。だから、単に寄せ集まって同じことを言うことが「連帯」の証というわけには行かない。そこに共通の責任を自覚できるかどうかである。僕など、学生運動の時代の人だから、特に注意したいところなのだ。

 「連帯」と「責任」が切り離しがたいものである以上、「連帯」には共通の目的があるということになる。共通の目的のために人々は責任を持ってことにあたらなければならないのだ。異なった習慣を持つ人々が暮らす場合、お互いがお互いを迎え入れる気持ちがなければ、無視や排斥がまかり通るではないか。共に仲良く暮らすために、お互いが努力をする必要が生じ、そこに責任が生じる。だから共に住まうということは連帯の精神を必要としているということになるのである。コアビタシオン(共生)には、ソリダリティ(連帯)の気持ちがこもっている。

 ところで、国際理解とか異文化理解等といえば、素朴にあっそうですか、と思えそうだけれど、よくよく考えると、国際とか異文化を、どの範囲で言っているか、一度考えて見るべきだろう。極彩色の複雑な美しい文様を身にまとったアフリカの原住民がいる。水などのインフラも行き渡っていない土地に住まう人々がいる。この人たちにとって、日本とは、アメリカとは、ヨーロッパ諸国とは何だろう。

 客観的にあるものがすべての存在と関わるのではない。日本にとって中国は古くから、米国はこの2世紀、その関わりを考えなくては日本の今が分からない。ヨーロッパ諸国やロシア、朝鮮、インドと、それぞれとのつながりもある。しかし、アフリカのチャドとかウガンダなど同様には言えないし、アジア圏においても同じことが言える。

 ヒトって何か、の意識が今どうなっているのかということである。チャドの人たちを一人も知らなくてもいいわけだけど、そこに住まい働く人々の日常、喜怒哀楽を軽んじていいとは思わない。でしょ?

 それに、動植物、環境と、人は多くの幸運に恵まれて生きている、生き延びてきた。それらを破壊する行為が大小数々あっても、それが局地的に留まらなくなった今、僕たちが意識を変革しないでどうしますか、ということのように思う。

 「共生」を、自分たちに引き寄せて考えよう。「共生」の言葉については、古く遡ることはできない、と初めに書いたのだ。皆さん、これからですよ!!  不一

(もう大変です、今を語るのは。今、起きている戦争が深刻であるから、固有名詞を一切省いていることに抵抗もあるでしょうが、そこはどうぞお許しあれかし。)

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和久内明
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