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人と教育 恩師と友の面影 (5) 中学校時代

    小宮隼人先生、そして吉田俊明君(その4)


 閑話休題。高校の時のことをここに書きつけるのは、今は余り意味がなかろう。ましてや大学闘争で揺れ動いた大学のことなどは。しかし、大学に強い期待があって進学に心巡らせていたことを、おいそれと忘れるわけには行かない。

 思い返せば、僕は高校の友人に教えられ、『中央公論』誌に載った新設大学学長の論考を読んで、学長に手紙をしたためた。レポート用紙に鉛筆書きで11枚の走り書きだった。失礼な手紙だったはずだが、早速訪ねて来いとハガキが届き、親父は驚いてこれはすぐに訪問せよと言った。

 学長室でそれなら是非うちに来いと言われた。「それなら」とは、受験勉強の延長線にあるのではない、本物の「学問」をするという思いである。今にして思えば、学長にもそれは儚い夢であった、ということであったろう。つまり、学園紛争下たくさんのことが起き、理想をもって挑むことが、初めから、思わぬ処から崩れ去ったのである。当時のことは今もって僕には生々しすぎる。

 だから僕の大学時代など、下手をすれば、様々な誤解を解くために過剰な、小難しい話をしなければ自分でも収拾がつかなくなる恐れが強い。あれこれ個人への不快な思いが甦ったりするのを避けられないだろう。生産的になるとは思えない。

 それはそうと、ほとんどの向きが、東大闘争を始めとするその時代のことを経験的にしか、つまり狭い眼で見ることしかできなかったのではないかと思う。そのことだけは指摘しておきたい。疑う者は、東大の「確認書」を見よ、である。

 この文書は、1969年1月10日に秩父宮ラグビー場で、大学と10学部の代表者たちで交わされたものだった。大多数の東大の人間は、これで胸をなでおろしただろう。確かにこれで収まりがついた。ただし、東大の闘争というか「内紛」は、である。

 しかし大学闘争は、内容的に複雑な、深い歴史と背景のある戦いでなければその名に値しない。誰でも一度ならずTVで目にした、東大教育学部と経済学部前でのヘルメット集団のゲバ棒での渡り合いは、「外人部隊」のそれであった。駒場キャンパスを含め、数々の大小入り乱れた乱闘に駆り出されたよその大学生たち。中には顔に一生消えない傷を負った女学生がいたことなど、通り越してしまっていいわけがない。

 その東大闘争といえば、学生運動の頂点で、東大の学生たちはゲバ棒を手に、殴り合いを行っていたと多くの人は思っていたろう。お調子者というか、第一線に出た英雄という思いに浸った学生がいたにせよ、彼らは暴れればよいと思うほど愚かではない。確かに、東大にはゲバルト・ローザと騒がれた女学生がいたけれども、彼女は今どうしているだろうか。「外人部隊」にも大学問題の議論を欲した学生が少なからずいた筈だが、上からの指示で動くのが精いっぱいであったろう。まるで軍隊の兵士というところか。指導者は嬉々として「突撃!」と叫べばよいわけだ。

 準備周到、派手に放映された「安田講堂事件」(「確認書」の6日後に起きた)が「大学闘争」を全て物語るわけではないのである。東大人たちの「確認書」のために、自分の大学のことを忘れて必死に詰め、ヘルメットをかぶり、ゲバ棒を持ったことなど、信じられないほど愚昧な行為ではないか。井上陽水さんに、「傘がない」という名曲がある。学生運動が退潮した後の虚しさ。その虚しい感情を見事に歌にした。しかしどんなに好まれても僕は歌わないし、ほとんど何も分からずに参加した学生たちを思うと切なくて、とてもではないが、歌えない。

 話を元にもどそう。中学最上級生になった時、小宮先生のお陰で、文化放送の「子どもさまのお通りだい」放送3周年記念の初日に出た。2年6組のクラス番長と僕のある日の出来事を再現して欲しいと頼まれたのだ。それが起きたのは二クラス合同の技術家庭(男子のみ)の時間、先生が教室に見える前のことだった。ストーブ近くの机に足を上げて腰掛け、トランプをやりながら友達を恫喝している彼がいた。それを見かねて注意したことからことは始まった。

 「おもしれぇ、やんのかてめぇ。」と彼は凄んだ。僕は誰しも驚くことを言って返した。「あぁ、いいよ。外に出よう。」と。そう言われて奴が断るわけがない。しかし僕には勝算があった。前から考えていたのだ。何とか、彼とサシで話す機会が欲しいと思っていたのだから。

 図書館の方に向かった。「おもしれぇ、図書館か。」そう、図書館の裏側は彼らのケンカや暴力の場所で、普通の生徒は近づかない。彼は意外に思ったろうし、喜んだはずだ。だが、もっと意外だったのは、裏側ではなく、正面入り口に僕が入ったことである。彼はしり込みしたようだった。まぁ、図書館に入るような人物ではないから、それも当然か。僕は平然と言った。「何だ、怖いのかよ。」と。そう問われれば、番長としては「別に、怖くなんかねぇさ。」と答えるしかない。僕はまっすぐ自習室に入った。誰もいない。授業中だから当然である。「まぁ、座れよ。」

 その時の話を再現して欲しいと、文化放送の記者が2人。再現の場所は、後に生徒会長になる友だちの家だ。この友だちもなかなか騒がしかったのだが、「深く考える」という言葉に共鳴して、僕が始めた「巡回ホームルーム」で大活躍をした。3年生になって、お互いのクラスが同時休講になった時、同じく休講の1年生の教室を訪れ、ホームルームを開くのだ。もちろん学校の許可を取り付けてのことだ。この試みが面白いほど成功し、1年生から歓迎された。だから僕が会長を辞する時、彼を口説き落として次期会長になってもらった。受験期の3年生がなった例はない。1年生からは90数%の獲得票数で、前代未聞、彼が圧倒的に人気があることを示した。

 クラス番長は人っ子一人いない静かさに浸された自習室で、人の話を聞く耳を働かせるようになった。僕は鉛筆を手に白紙を広げて話を始めた。図を描いた。人の存在と位置ということ、君の場合はこんな風だと。それから勉強と将来ということを説くような話をした。それ以上だったかも知れないが、少なくとも2コマの授業時間を費やした。そうして、ある約束を取り付けた。このことがやがてクラス番長の家で学習会が行われるきっかけとなったのである。

 近所から学習に見放された子たちが集まってきた。僕や吉田たちも参加して、コタツをはさんであれこれと勉強し始めた。クラス番長は人が驚くような、時間のかかる宿題をやって見せて、教師やクラス中を驚かせた。もちろん彼のご両親は喜んで協力してくれた。こんなことが出来る、可能だというのが、今日まで続く僕の教育観、学校観である。もう揺るぎようがない。だが、広い社会、現実はそんなに甘くはないのも事実である。別の項で話すこともあることだろう。

 放送後、文化放送は、吉田を含め僕たち4人を伊豆山の温泉(放送局所有)に一泊招いてくれた。もちろん生徒だけである。写真も撮った。いい思い出になっている。本当に若い頃のいい思い出は、特に大切なんだとつくづく思う。若いと言っても、僕にとっては中学せいぜい高校までだろうか、本当は大学まで、と思いたいのだが。

 僕の文章が初めて書籍にのったのは、宮坂哲史(46歳で亡くなった東大教授)編の『中学生の生活記録』(国土社、1966年)で、2年6組のことを結構長く綴った。小宮先生は長すぎるから、後は任せて、と言われた。また先生は、『非行児とともに』(国土社、初版1969年)を書き、もっと君たちのことを書くべきだったと、後悔したように言われたが、非行の群像と指導の実際であるから、それは分かるような気がした。先生のその後だが、退職後に都留文科大学の非常勤講師として活躍された。しかし、小宮先生自身のことなのでそこは省こう。

 今日的に一言加えなければ、と思うことがある。「非行」のことだ。「人と教育」の第3回目で僕は書いた。「今ではあまり言わないが、『第二次非行ブーム』(今は少年非行あるいは少年犯罪の『第二の波』と言うようだ)」と。何故「第二次非行ブーム」でなく少年犯罪の「第2の波」なのか。色々解釈は出る。「非行とは何か」、先ずは定義をしなくっちゃ、と言うなら、大学の研究者が教えてくれるかも知れぬ。僕が気になるのは、よく知る世田谷の中学校教師が、生徒には決して手を出せないから、手を後ろに回すか、頭の上に乗せるかする、後は当局(警察)の仕事、という発言だ。

 周知のように、選抜試験のない公立中学では、それこそ様々な背景を持ち、能力を持った生徒が集まる。中学や高校時代の生徒は体も大きくなり、家庭から精神的自立を行う時期で、友だちや仲間が大切な存在だ。それに伴って心も大きく変化する。この時期、教師がどんな問題があったとしても「手を出さない」絶対的なルールがあるのなら、問題行動は少年犯罪と認識するということだろう。すなわち、教育の場としての学校には、大きな変化が起きたのだと僕は考える。

 さて、無私の教育活動とは言え、小宮先生には独特の錯覚というものもあったように思う。討論クラブに加わっていた優秀な女子生徒に、他のある生徒のために通知簿の成績を一つ下げることを告げられたと、後にその当人から聞いた。いくら非行問題の先生でも、あってはならない根本的な間違いで、驚きである。先生は、彼女の善意を信じたのだろうが、明らかに身勝手である。

 それは政治社会が行ってきた「だまし」の手口に通じる、と僕は直感する。確かに、通信簿の相対的五段階評価に昔から抵抗や批判があったにせよ、それは理由にならない。通信簿でもらったその1点の意味するものを、点数の劣ったその子が考え、心にとめて級友に感謝することもないだろう。先生側のそういうきれいごとに、教え子=人を引きずり込んだことを忘れるわけには行かない。今日では、公立の小学校でも通信簿を廃止して新しい道を切り開いているところがあるのだけれど。

 どのような子も指導を受けて育つ。例え、親や環境がどうあろうとも、教師は子どもがまっすぐに伸びていく力にならねばならない。子どもは自分で稼ぐ人間ではないのだ。自立して生活するまでは、大人が子供を守らないでどうするのか。それにしても、である。大人社会は家庭を含めどうにもならないと思う時、教育を左右する社会や家庭の問題を、ずっと考えざるをえなくなる。

 小宮先生を通じて知ったのは、知識と教育は切り離せないということだ。幸か不幸か、中学時代からこの自覚をしたのは大きい。僕が哲学を生涯続けることになった原点となった。

 あれは、3年時のホームルームを終えてだったか。吉田俊明は、廊下の隅の柱の所に僕を呼んだ。級友を敵に回すような学級運営を始めた僕を、吉田は真顔で批判した。早く帰ることがありありと態度に出て、余りに2年6組とは異なる、他学級の寄せ集め集団クラスにうんざりして、クラス全員を引き止めていたのである。生徒会長だったからクラス委員長に選出されたに過ぎず、本来なら彼は副委員長ではなく委員長だったろう。そういう彼だから、説得力が違う。

 僕は学校の帰り道、本屋に立ち寄って、人のまとめ方を勉強しようと思った。幸い、大阪の人が書いた経験に基づく著書を見つけ、その夜ほとんど徹夜して読んだ。「強引」の理由、すなわち、人の生活感情を理解せず、引き出すことも考えずに、こうあるべきと考えて引っ張ることの愚かさを心底納得した。翌朝、僕は学校へ出てクラス会で過ちを級友たちに謝った。

 この経験はものすごく大きい。その後の青春、大げさかもしれないが、その後の人生を根本から左右した。ものの見方、考え方につながった。リーダーのあり方や活動の是非がこれで分かると、今でも思っている。企業レベル、国レベル、国際レベルでも大切な視点だ。だから、故吉田俊明君に深く感謝する、これを忘れることはできない。

 中学時代の大事なことを全部描けたわけではない。クラス解体反対のクラス討論(親しい友達の論客派が一人反対)、クラス番長とのその後の問題、他クラスの番長とやり合ったことなど、まだまだ沢山ある。しかし、この項はこれで筆をおくべきだろう。その時の友達たちとは、横浜の桜木町辺りで時折飲む。この話をすれば文句も出ることだろう(苦笑)。なんせ、60年も前のことだ。それにしても、今だからこそ書く気になったのである。

 (中学時代の小宮先生と吉田君の項はこれで終わりにします。何らかの参考になればいいのだけれど。)

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和久内明
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