人と生活　お風呂屋さんで人生勉強

　家に風呂があっても、お風呂屋さんに行きたい人は少なくないと思う。僕もその一人で、温泉は無理でもせめて広い湯舟、立ち込める湯気、老いも若きも、地位のある者、金持ちも、貧乏人も、まぁ様々な人々が行き交う風呂場は、理屈抜きに自由で楽しく、心身共に癒される。

　小さい頃からお風呂屋さんに厄介になっているが、ちょっとしたドラマだってある。昔は、風呂屋で社会マナーを知ったものだ。髪を洗う時は、隣の人にかからないようにする、湯船で泳がないなど、当たり前のことをだ。

　だが、昨今そうとも言えず、ファミレスと一緒で親がマナーを教えられないことがあり、苦虫を噛み締めていても、許せぬと、注意したり、怒鳴ったり、することもあったりするのは何とも情けない。先日など、あの有名なマックだが、三歳程度の男の子が走り回ったり、大声を出して、店全部のお客さんが迷惑しているのにも構わず、その子のわがまま放題の世話にかしずく若い父親を見た。どう見ても、先天的に問題のある子ではない。ようやく帰るかと思ったら、僕のそばでまた子どものわがままの言うなりだ。困ったことだが、注意する客はない。（もちろん、僕は黙らせましたが。）

　そこで思い出したのは、もう20年近く前のこと、風呂屋さんで見た光景だ。情けというか思いやり、人間こうでなくてはいけないと思ったことだ。

　休日だった。行きつけの銭湯の湯船につかっていると、向こうに見える洗い場に風呂仲間のおじさんが座っているのが目に入った。昭和一ケタかな、と思っていたらどっこい大正９年のお生まれと聞いてびっくりした。一月振りくらいの出会いだった。

　戦中は飛行機の技術者だったとか。昭和１９年１２月３１日夜、フィリピンから台湾へと秘密裏に船団で移動したときのこと。敵の水雷が襲ってきたために甚大な被害があり、おじさんの船は損傷を負いながらも、際どいところで何とか上陸できたということだった。

　おじさんは、「撃沈」と「轟沈」、その状況の違いなど、具体的にお話してくれた。まさに「九死に一生」で、戦後社会に何とか生還した人なのだった。おじさんは、その台湾から、特攻機が４０数機飛び立ったという話もした。帰ってきた特攻機もあったということだったから、鹿児島のように、その飛行兵は疑われて、虐待されたということはなかったかとお聞きしたら、それはなかったねぇ、と意外な答えが返ってきた。

　さて、湯船から見ていると、そのおじさんの右手がビニールでぐるぐる巻きに保護されている。あれ、怪我をされたな、どうしたんだろう・・・、声をどうかけようか、と湯船の方から見つめて考えていたら・・・。

　背中全部と大腿部まで、豪勢に刺青を彫りつけている、３０過ぎで茶髪したいつもの兄さんが、タオルを絞れないでいるおじさんに気付くと、ぱっと飛んでいったのである。タオルを絞り、手桶の水を換え、石けんを使って、その刺青の兄さんは、おじさんの背中を流し始めたではないか！

　先ずはおじさんは困っていないか、何かすることはないかと、こちらはただぼーっと自分の都合を思っていただけ。我ながらまことに恥ずかしいことだった。

　教育、教育っていうけれど、こういう若い人の気遣いや行動力で、こちらの底が見事に割れてしまった。流し終わってから、その刺青の兄さんは、湯船の縁に腰を掛けて、ゆっくりと文庫本を読み始めた。さりげないもので、人はほんとに見かけによらない。

　この話を別の所でしたことがある。そうしたら、運動部（大学）の後輩が、街で目を光らせる存在が消え、怖い大人が否定される社会が何か間違っているのではないか、というハガキをくれた。「怖い大人」とは、社会のルールを守る大人のことだろう。

　上に書いた総刺青の兄さんは、おじさんの手拭いを絞り、桶の湯を替え、背中を流すという一連の行動を鮮やかにやってのけ、そ知らぬ顔で風呂を出た。確かに学校、家庭、社会における教育活動がことの外大事であることは言うまでもないことだが、考えてみると、「怖い大人」どころか節操なしの「だらしない大人」があちこちにいる。しかも、注意をしたら刺されることもあるような乱れた社会になっている。

　うーん、我々はせめてこの兄さんのように人々に接し、社会生活のいい風習を絶やさないようにしたいものだ。ささやかなことのようだが、それは一つのともし火となって輝くものなのなのだ。皆さんもおなじ思いを持っていると思う。

　お二人と出会わなくなって久しくなった。おじさんは100を越えるし、2歳年下の亡父は、格別の思いをその人に馳せたことがある。諦めるしかないだろう。お兄さんは元気で過ごしているだろうか。いつまでも消えずに彼の姿を思いだす。

（今回は「生活」と題して書きました。これからも宜しくお願いします。）