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ぼくの考える 人と生活 一言追加、アートについて

 テクネーという1500年以上も前のギリシアの言葉から、学問的知識、科学的知識を引っ張り込んで、「人生は短し芸術は長し」の意味するものを深めようとした前回。アートについては残ったままだったので、ここにも目をつけなくてはうまくない。

 「art=アート」って、知らない人はいない。「芸術、美術」でしょなんだけれども、そこにとどまったままではどうもうまくない。「芸術、美術」というのはかなり分化した言葉なんで後世のものだ。「art」は広い意味があって、例えばfine artと言わなければならないことがある。正直な話「武術」も一緒だ、なんて言ったらやっぱり変に思われるだろうか。

 元をただすなら、アルスというラテン語は、テクネーの訳語だそうだ。どこも似ていない。ラテン語は田舎の未発達の言葉だったが、ギリシャに留学したラテンの若者たちが、これまで母語になかった考え方や文化に出合って祖国の言葉を発展させようと「翻訳」に努めた。ギリシア留学をしたのは、ラテンの人たちだけではなかったはずだが、ラテンの人たちは、ギリシアの言葉をじかに輸入することで自国語を卑下し、そしてわきに追いやる道を取らなかった。

 わが日本はどうだった?短絡的に理解するのは危いから、避けまーす!官製の中国語、お経の中国語、朝鮮半島の言葉もあるし、最近では米欧の言葉など、本居宣長ではないけれど、本当の日本語はどこに、あるいは本物の日本の精神とは何かなど、関心せずにはいられないところだが、いまは避けて通る。問題は別。比較ナントカというのもあろうけれど、やむを得ないだろうと考える。

 さて、ギリシアが論じ深めてきた「文化」をその言語が担う。いや「鶏が先か卵が先か」ではないが、言語の展開と発展性が文化を生み出し支える。そう考えることが、ラテンの人たちはできたんではないか。つまり、ギリシャの何たるかをつかんで学んだのだろう、と僕は理解している。

 そのギリシアなんだけれど、「古代ギリシア」では分からんと、英国の哲学者に言われたことがあるんで、もう少し申し述べよう。今のマケドニア(独立した一国はない)と一緒にはできないんだけれど、マケドニア王国というのがあった。ギリシア地方のずっと北側。あのアレクサンドロス大王(紀元前356年~紀元前323年)が出たところだ。彼の若い時の先生がアリストテレース(前384年 - 前322年)だったというのは知っている人が多いかも知れない。

 当時のマケドニアは貧しくて、放牧生活をしていた。言ってみればホメーロスの時代でして、ポリス(都市国家)などとは無縁。しかし、最も進んだテーバイで学んだピリッポス2世(紀元前382年~紀元前336年)という王が大改革を行った。まぁ、それまでもその後も、血生臭い話があって、今に続くなぁ、と思わされることに事欠かないのだけれど、関心のある人は調べてみてください。凄くてヤになります。

 ピリッポス2世は、ポリスを作って市民共同体を始めた。牧羊民にもいい。豪族たちは貴族になり、これまでとは異なった、全く新しい中央集権的な体制を打ち立てたわけである。財政も豊かになるよう、貿易、金鉱山の開発にも精を出したそうだ。もちろん、軍隊も改革し、精鋭を鍛えた重装歩兵部隊を誕生させた。まぁそういう次第で、紀元前4世紀には北方のマケドニア王国が、ほとんどギリシアを平定した。

 しかし、彼は暗殺された。そのピリッポス2世の子どもがアレクサンダー三世、僕たちがアレクサンダー大王と呼んでいる人だった。なんか、広く東方に出て行って、大帝国を作る夢が見える気がする。ヘレニズムと言われるのは、大王が未知の東の文明、文化を取りこんで生まれた、と世界史で学ぶところだ。

 さて、イタリアの共和政ローマである。本題に戻るわけだが、紀元前2世紀にギリシアを征服した。しかるに、この辺がどこか(どこ?という突っ込みは素通り)と違うところで、力で勝ち、敗者は奴隷化、町と文化はすべて破壊、ではなかった。ギリシアの高度な文化がローマ人を魅了したのだ。

           

ジョン・ディーアー(英:1759-1798)のレリーフより。カエサルのイングランド侵略。

 そうそう、風呂の英語がbathとは、誰でも知っているが、イングランド西部のバースを訪ねて、温泉施設を見て知ったことを思いだした。この地には大陸から追われたケルト民族が住まって、「スリス」と呼ぶ女神を抱いていた。ジュリアス・シーザー=ユリウス・カエサル(紀元前100年 - 紀元前44年)がイギリスと2回にわたって戦争したことは有名だが、バースを侵略して勝ったローマ人たちは、この女神を否定して、ギリシャ神話の女神ミネルヴァを押し付けた。ありそうな話なのだが、実はウソ、なんです(笑)。

 そうではなくて「スリス・ミネルヴァ」と言って、ローマ、現地双方の女神を立てた。もちろん侵略者のローマが非常に苦労して戦ったことなど、イギリス側もそうであるけれど、想像に難くない。だから、現地の人の大切にする女神を破壊して、敵に回すことなど出来なかった、といった歴史の見方もあるかも知れぬ。しかし、バースはローマの征服者によって「アクア・スリス(スリスの水)」なる美しい名で呼ばれたのである。

 それを知って僕はびっくりした。侵略者の何たるか、乏しい頭と知識を絞るのだが、ためいきしか出てこない。心臓が鼓動していた。そしてじっと見て回る、それしかなかった。つまり、ミュージアムとして誰でも入ることのできるローマ浴場跡には、神殿跡や遺物も展示されているのである。ここは素直にローマ人、現地の人々の交流というか、僕がいつか書いたように、「共生」を思うこともできようものだ(5月23日、「人と哲学」をご覧ください)。文明、文化というものは、単純に力の物差しで測ってハイおしまい、というわけにはいかないということだ。

 翻って、イタリア半島から有為の若者たちが続々とギリシアに留学し、そこから学ぶのは当然としても、ローマの若者たちは、自国の言葉を展開、発展させる基軸を打ち立て、やり遂げたと考えてよいと僕は思う。「アルス」なる語で言えば、ギリシャ語「テクネ(techne)」の訳語になるわけだ。

 飛躍しなければならない感じ(笑)だが、欧州の大学制度の「自由七科」のことを知る人もいることだろう。「人が持つ必要がある技芸(実践的な知識・学問)の基本」と見なされた自由七科で、文法学・修辞学・論理学の3学、および算術・幾何・天文学・音楽の4科のことだ。この技芸と和訳されているのがars だ。

 そうこうしているうちに、産業革命が起こる。するとその意味が徐々に限定され、変化していく。18世紀頃から科学が発展して、実用的なものを作る技術を「technology(テクノロジー)」と呼ぶようになって、「art」から実用性が切り離されたと考えるとどうだろう。アルスロンガ、ウィータブレウィス(羅: Ars longa, vita brevis)が、今様には(平板には)受け取れなくなってくるんじゃないか。僕なんかそう思っているのだが。

 だから、人生は短し、とは確かにそうでしょうが、ars が人生無くして生まれようのないものだから、この警句をとらえるとき、私たちは自分で何を作ってきたか、作っているか、と幅広くとらえたい。例えば、お婆ちゃんがこれを作ってくれたんだなぁ、と思う心だ。

 ars は、個々の人生の絡み合いだし、連続なんだと思う。戦争と出世と名声とカネにしか興味を持てない人生(そんな人は滅多にないだろうが)など、他と好ましい意味で結びつけないから、ars ではない。ちょっと言い過ぎたかも知れませんが。


(堅っ苦しいな、と思われたら御免なさい。ars=art のこと、芸術などのこと、言いたく思っていたから、お許しあれ!・・・そうだ、ラテン語と言えば上に触れたシーザー=カエサルとキケロ〈紀元前106年 ~紀元前43年〉
だ。政敵でもあるらしいが、二人の文通もある。要するにラテン語と言えばこの二人を忘れるわけにはいかない。文学・詩・哲学ならルクレティウス〈 紀元前99年頃~ 紀元前55年〉、ヴェルギリウス〈紀元前前70年~紀元前19年〉などのこともいつか書きます。怒られるかもしれないですから、お断りします。)


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和久内明
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