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地粉との出会い

地粉の存在を知ったのはいつだろう❓

もう今は独立して子供までいる子供たち。
つまり私はおばあちゃんの肩書きも持っているって事。

彼らが確か小学生の頃、あるお母さんが
農家に直接、小麦粉を買いに行くとの事だった。
スーパーじゃなくて、農家さん⁉️
そのお母さん曰く
農協を通して市場に出るものは、農協から指示された農薬を使っていないと市場に出ないとの事だった。
その頃から意識して行ける時は、私も農家さんから直接、買わせてもらう事にした。
何も考えず、普段の小麦粉に変えて地粉を使い出した。

我が家ではよく朝ごはんに巨大なホットケーキを作ってた。
その粉も地粉に。

おやつにドーナツを揚げたり、天ぷらしたり
ありとあらゆる小麦の料理は地粉に変わっていった。

ただ、地粉という意識は無かった。
無農薬の体に良いとされる小麦粉

全てこの小麦に変えたわけではない。
便利な場所に住んでいた訳では無かったから。

この頃、森の中ともいえるお家に住んでいた。
生活用水は全て井戸水だった。
スーパーも車で走らせて30分ほどいかないと無いから、
無農薬野菜を宅配で購入したり、生協を利用したりしてた。

なので小麦粉はその時その時で手に入りやすい場所から。
農家さんの近くに行けた時はしばらくの間は地粉使用。

だけど、その頃、私の肌は
子育てのストレス⁉️自営業のストレス⁉️同居のストレス⁉️
よくわからないが史上最高に肌がボロボロだった。
目尻や唇の端はキレ、手は常に痒く、アカギレていて今とは随分違っていた。

約10年前ここ、大分県に移住した。
その頃、40を過ぎている。
ヤバい、どこでもよいから働かなくては。
40歳までと書いてある募集チラシをみて、とりあえず面接に。

工場で働きながら、子供たちとお菓子や料理を作って生活する日々が始まった。
知り合いのカフェのお手伝いをしながらクッキーも店頭に並ばせて貰った。

その頃、オーガニックカフェには東日本大震災で被災してきた小さなお子さん連れのお客様がちょくちょくいらしていた。
放射能の影響を考えると、何を子供に食べさせれば良いのかわからない。
そんな親御さんに出会った。

最初は九州産小麦というのがスーパーで出回っていて、それを購入していた。
安価で使いやすい粉だった。確か佐賀県産小麦粉と書かれていたと思う。
だんだんと行動範囲と共に視野も広がって熊本産地粉を見つけた。これもスーパー。

次にスーパーの地産地消コーナーで地粉を見つけた。
最初はスーパーに並んでいるけど、農薬はどうなのかと思った。
裏に生産者の方の電話番号があり、問い合わせてみた。
最初の方は最初の一回だけ使っているとおっしゃった。
その後、この方が小麦の生産を止める事になり、今の生産者さんを紹介してくださった。
農薬なんか使って小麦は作らないとおっしゃっていた。
使わなくても麦は育つよって言ってた。
そこから今の生産者さんと繋がった。

地粉を使い出して地元のおばあちゃんのマッサージをする機会があった。
(そう私は揉みほぐし整体やリンパドレナージュの仕事もしている)
そのおばあちゃんが、今日は団子汁を作るから、スーパーに地粉を買いに行くと言ってた。
地産の地粉がやっぱり美味しい、団子汁の出来が違うとの事。
やっぱり、地粉は地元の人に愛されて続けてるーというか、自然なのね〜
って感じた。

今では、小麦粉を使う場面では全てが地粉。
多分、8年は完全に地粉生活になってると思う。

私の肌は年齢とともにシワもシミもあるけど、肌荒れは無い。
痛くも痒くも無いからありがたい。

時々、軽い小麦アレルギーがあるのだけど、wakoyaのクッキーは
大丈夫って方がいる。
へーそれは嬉しいって思うのだけど

そう、日本人がむかーしからお米の様に食べている地粉を使っているから
かも知れないよねって思う。

地粉の歴史とか、もっともっと知りたいって思ってる。
次回はそんな事も記事に出来たら嬉しい。
ではまた



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