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連休巡礼(2)

連休の旅の2日目の朝、5月3日。加子母は冷えていた。体感で15℃くらいだったろうと思う。標高約500メートルで、周囲には1500メートルくらいの山々が連なり、そこから冷えた空気が下りてくるのだ。厚手のシャツを持ってきて正解だった。

道の駅加子母の第2駐車場ではわれわれを含めて5台ほどの車が車中泊していたが、皆起き出し、出発などの準備をしているようだ。時刻は7時頃だったか。快晴なので、連休後半初日のきょうはずいぶんと人出があるだろう。

行く前に目星をつけておいた福崎公園というところに移動する。10年前の2013年7月、この公園の向かいにある、「ふれあいのやかたかしも」に泊まったのだ。そのときは、最近亡くなった友人と友人が率いるN工業大学の学生さんたちと一緒だった。

10年後に友人がいなくなるなどとはそのとき露ほども考えてはいなかった。物事は変化するとはいえ、時の流れがもたらしたものにあらためて深い喪失感を感じる。

福崎公園とその奥のほうに見える「ふれあいのやかたかしも」。中央やや左にテールゲートを開けた、われわれのキャンピングカー「ピクニック・ゲリラ号」がいる。

福崎公園に駐車したキャンピングカーのテールゲートを開けて、そこで朝食の準備をする。連休中も公園では特にイベントなどはないらしく、駐車していたのはほぼわれわれだけだった。

食べかけの食パンを再トーストする。おかずだか主食だかわからなくなってしまったが、ハヤシメシも食べた。

朝食を食べたあと、加子母でなんとしても会いたかった二人の人にショートメールで連絡する。最初にメールしたのは、亡くなった友人の門下生で一番弟子でもあるS君である。S君には事前にfacebookのメッセンジャーで連絡していたが、3日は仕事ということで当初は会うのが難しいだろうと思っていた。

しかしわれわれもこの日以外に加子母に来るのは難しく、15分程度の立ち話でもいいので、なんとか仕事が終わってから会えないだろうか、無理を言って申し訳ないと告げた。S君なら友人の葬儀等についても知っているだろうから、どうしても会って話を聞きたかったのだ。そういうことは電話やメールでは聞きづらい。

まもなく返信が来て、夕方には加子母に戻るので会えますというありがたい言葉を頂戴した。ほっとした。

ひと安心したところで、道の駅加子母をのぞいてみる。ここにも思い出がある。亡くなった友人や学生さんたちと一緒に朝食をとったことがあるのだ。道の駅では珍しく、レストランでモーニングを出しているのである。

同じメニューがあったので、すでに朝食をとったあとではあったが、席についてかみさんとモーニングをオーダーする。私はコーヒー、かみさんは紅茶だ。まだ道の駅が混雑する前だったので、そういう気になった。モーニングは昔日と同じように美味しかった。

道の駅加子母のモーニングセット。これで400円ととてもリーズナブル。10年前もほぼ同じ内容だったと思う。

そのうちに時間は11時を回った。今度は加子母のIさんだ。Iさんとは直接会ったことはないが、facebookを通じて連絡をしたことがあり、私の書く記事もときどき読んでくださっているようなので、まったく初めてというわけではない。加子母でNPOの役員をしておられる方で、大学教授である亡くなった友人やその門下生の方々とも親交が深い。S君同様、私はどうしても今回の来訪でIさんとお会いしたかった。

しかしIさんとは本来4日に約束をしており、1日早く加子母に来てしまったので、翌日の4日にお会いするつもりでいたが、とりあえずはショートメールで連絡をしてみた。おりしも、道の駅加子母の第2駐車場では、警察がスピード違反の取り締まりを開始していた。注意してください、とメールを送ったら、今どこにいるんですかと早速返事が来た。どうやらフライングで加子母に来てしまったわれわれと今日会ってくれそうな雰囲気だ。

しばらくしたら、さっそうと軽トラを駆ってIさんが現れた。うれしい。ここまで270kmあまりを走ってきた甲斐があった。旅のモチベーションは人と会うことなのだ。

そのままわれわれは立ち話を30分あまりも続けた。友人の最期の日々のあらかたの様子や、重い病が判明した頃の友人との受け答えなどを聞くことができた。

そしていかにわれわれにとって友人が大きな存在であったかとあらためて再確認した。こんな人はもう現れないだろうというような思いも新たにした。

そればかりではなく、友人が監修した、加子母の明治座のことを扱った現在は入手困難な絵本と、やはり友人と学生さんが制作に関わった、明治座(注:加子母の民衆歌舞伎などを行う木造の劇場)の改修ドキュメントDVDなどもお土産で頂戴してしまった。

そのうちにIさんは加子母で有名なそば店に電話をしてくれ、昼食の心配をしてくれたのだが、きょうはすでに売り切れということらしかった。友人はベジタリアンだったので、特別加子母のそばが好きで、その店も贔屓にしていたらしい。

車を換えてきます、と言って一度福崎公園を去ったI氏は、やがてNPOのハイエースで現れ、眺めのいいところにいって昼食にしましょう、と言ってくれた。早速われわれ夫婦はハイエースに乗り込んだ。

福崎公園とふれあいのやかたかしもの間にある道は、そのまま白川(加子母川)の南西側の山肌についた道を登ってゆく。こんな上にほうに野球場があるのか、しかも2面も、というようなところである。あまつさえ、途中からは未舗装路である。そこをI氏の運転する10人乗りくらいの大型のハイエースは平然と行く。さすが加子母の人の運転である。

辿り着いた、森林関係の施設には立派な展望ウッドデッキとテーブルがあった。そこで、Iさんは昼食を提供してくれた。

「道の駅に最後に残っていた朴葉寿司の二つです」とおっしゃる。ご自分の分は炊きこみごはんだ。加子母の名物でもあるこの朴葉寿司をわれわれは遠慮なく頂戴した。

I氏が案内してくれた、展望デッキ。道の駅がある白川のほとりははるか眼下である。加子母の面積の大半が豊かな森林であることが実感される。


加子母名物の朴葉寿司。食べ方にも作法があるそうだ。この朴葉寿司も2013年に友人たちと加子母大杉のところで食べた。懐かしい味である。

展望デッキでもわれわれは友人のことを話し続けた。「きっと今その辺にいて笑って話を聞いていますよ」とIさんは友人のことを言った。私も同感であった。

展望デッキのあるところは、加子母の林業関係を顕彰する施設であるらしく、昔、山から材木を下ろすときに使った木造の軌道などが保存されており、I氏はそれを解説してくれた。近くではシイタケの栽培なども行われていた。

福崎公園のところに戻ったわれわれは、そこで解散ということになり、ハイエースで去ってゆくI氏をわれわれ夫婦は名残り惜しく見送った。良かった。友人のことを話すことができて本当に良かった。

聞けば、葬儀はコロナの時期だったこともあり、家族葬のようなかたちで内内に執り行われたらしい。それが昨年の7月。10月になって、大学や門下生、関係する諸団体や、加子母の人々を集めて、名古屋で有名な名刹で「偲ぶ会」が行われたとのことだった。そういうことを知りたかったのだ。そのために加子母に来たようなものだったのだ。

福崎公園でI氏を見送ったわれわれ夫婦は、再びピクニック・ゲリラ号のテールゲートを開けてくつろいだ。車中泊旅行で滞在するときは、昼間の時間をどうやって過ごすかがポイントになる。天気のいいのはけっこうなことなんだが、5月にもなるとなかなかに暑いのだ。もちろん夏になったら、高原の木陰でもないといられない。

道の駅はすごい混雑のようだ。ひっきりなしにバイクツーリングのライダーたちもやってくる。われわれは一度車を出して、近隣のファミリーマートまで買い物に出掛けた。

17時を回った頃、S君から「これからそちらに向かいます」というメールをもらった。ほどなくして、S君はミニバンで現れた。10年ぶりである。この前、彼に会った時、傍らには友人がいた。いま彼女は鬼籍に入ってしまった。

S君とも、立ち話で友人のことを語り合う。一番弟子でもあったS君のことを友人は特別に気にかけていたであろうことは間違いない。彼は、大学院でも建築設計で賞を取り、加子母の域学に尽力していた友人の下で、加子母に移住してしまった人なのだ。

立ち話のあと、われわれは「樹らり」というセンスの良いカフェに案内され、そこでまた友人のことをひとしきり話した。彼女が辞世の句でもあるような茨木のり子の詩の一節、「小さな渦巻」を遺したのはS君をはじめとする門下生の人たちであったのだ。

「小さな渦巻」

ひとりの人間の真摯な仕事は
おもいもかけない遠いところで
小さな小さな渦巻をつくる

それは風に運ばれる種子よりも自由に
すきな進路をとり
すきなところに花を咲かせる

時間はすぐに経ち、夕刻になった加子母をわれわれはカフェから福崎公園まで戻った。そしてそこでS君と別れた。

加子母でなんとしても会いたかった、友人に深い縁のある人二人ときょうは会って故人を偲ぶことができた。亡くなった当時のことも聞き、加子母に来た目的の大半はこれで達成された。

日が落ちてすっかり暗くなる前に、カフェのおいしいピザだけでは少々足りなかったわれわれ夫婦は、ピクニック・ゲリラ号の荷台で湯を沸かし、カップラーメンを食べた。それから車を道の駅の第2駐車場に移動させた。きょうは早目に寝るつもりであった。





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白鳥和也/自転車文学研究室
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