映画『アイスと雨音』
「時間が解決してくれる」
それはいい意味だと思っていた。
でも、この言葉の意味は、時間に解決されちゃ、困ることもあるってことを知った。
あの時、あんなに思い描いていた夢も、
あんなにやりたかったことも、
まるでなかったことにようにしてしまうのが
"時間"なのだと。
傷を癒しているんじゃなくて、傷なんかもともとなかったって思うように。
映画は、74分ワンカット。映画の内容は、
‐演劇公演が予定されていた。オーディションで選ばれ、初舞台に意気込む少年少女たち。しかし、その舞台は突如中止となった。-を描く。
ワンカットの中には、
「舞台のセリフとして発する言葉」と、「少年少女、本人たちの言葉」が混在していた。
また、MOROHAさんが劇中、生で歌っているシーンもある。しかし、本人が映っている時もあれば、ただ遠くでバックミュージックのように声が聴こえている場面、セリフと重なっている場面もあって、これも混在しているようだった。
私は初めて見たので、これは舞台のセリフなのか、少年少女本人の言葉なのかと混乱した。
MOROHAさんの音楽も、時に主人公で、時に誰かの背景のようだった。
でも、”それこそが”と私は思った。
境目がないほど、
どれもが現実で、どれもが虚構のようだ。
少年少女の言葉も、結局映画の中の言葉だから、セリフなのだろうけど。
それを言うなら、舞台のセリフでも、映画のセリフでもない、これを見ている私たちの日常発している言葉こそがセリフじゃない言葉かと言えば、そうでもないのではないかと思うのだ。
だって、現実を生きている私の言葉も全てセリフで、全て物語なんだ。
私は私を演じて、生きているから。
だから、
「現実」か「虚構」か「主人公」か「背景」か。どれにでもなり得て、曖昧で、境目のないものなのだ。
そう、思った。
松居大悟監督のインタビューの中に、
「僕が描く作品の真ん中にいるのは、いつもスポットライトの当たらない受信者であってほしいんです。光が当たっていない人たちがいい。当たる価値もないと思われている人にこそドラマがあるし、そういう人のドラマを描きたいし、描く価値があるなって思います。」
という言葉があった。
そこにこそ答えがあると思う。
「今、現実を、日常を生きている私たちこそが、物語の一部で、私を演じている。
だから、そんなの夢物語だとか言って、時間に解決されないように、夢を追いかけ続けてって。」
そう言ってくれている気がした。
追記:阿部公太郎さんを検索しなけなければ、
この映画を見つけることもなかったでしょう。現実もおもしろい世界です。