【ノンフィクション】その線を越えるな
これは、昨年の初夏、実際にあった出来事だ。
コロナの影響で失業した私は、花屋に再就職していた。
花を扱うことは、全くの未経験。慣れない仕事に悪戦苦闘する毎日だった。
しかし唯一、配送だけはさほど苦も無く熟すことが出来た。配送に使うハイエースは、以前の会社にもあったからだ。
私はその日も、荷台にお祝いの胡蝶蘭を積み、届け先を目指していた。前方左手に、目的地である店舗の看板が見えた。その時だった。
前を走る車がハザードをたき、路肩に停車したのだ。
私は隣の車線に車がいないことを確認し、ウィンカーを出してゆっくりと右に車線変更した。
すると突然、サイレンの音が響いた。この時私は、何かあったのかな、くらいに思っていた。
しかし、パトカーは対向車線からUターンして、私のすぐ後ろに迫ってくる。
「えっ、俺?」
自分は何か違反をしたのだろうか。まるで分らないまま、私は路肩に車を停車させた。
直後、制服警官が運転席に歩み寄ってくる。
「何かありました?」
私がそう尋ねると、警官はこう答えた。
「先程、オレンジ色の線、跨ぎましたよね?」
そう言われても、まだ私は何の事だかわからなかった。
「跨ぎました?」
私が聞き返すと、警官は交差点の手前を指さす。
「あちらで、オレンジの線を跨いでいましたよ」
そう言われ、私はようやく内容が飲み込めた。
「前の車が停まったんで、避けた時の事ですか?」
「そうです」
警官は、間髪入れずに頷く。
「えっ、あれもダメなんですか?」
警官は渋面を作り、こう答えた。
「気持ちはわかります」
気持ちは分かるって、何言ってるんだよ。私がそう思っていると、警官はさらに言葉を紡ぐ。
「あなたに悪気があったとか、そういうわけじゃないことは分かります。ですが、どんな場合でも、オレンジ色の線を跨ぐのは違反になるんです」
諭すような警官の言葉に、私は苛立ちを抑えられなかった。
「あの、じゃああの場合、どうすればよかったんですか? 見てたんですよね?」
私の問いかけに、警官は面倒そうに答える。
「流れるまで待ってください」
流れるまで待つ。あり得ないと思った。
私の目の前で停車した車が、何の目的だったのか、当然私には分からない。
もしかすると、あれから数時間の長電話が始まることだって、あり得るわけだ。
それを流れるまで待つ? この警官は本気で言っているのだろうか。
何か言ってやろう。そう思う心に反し、私の口からは「えっ?」という情けない疑問符だけが漏れた。相手が警官だという事実に、私は委縮していたのだ。
「本当に、気持ちは分かります。ですが、違反は違反ですので」
警官はそう言ってから、私に免許や車検証の提示を求めた。そして、書面に署名、捺印を求められる。
どう反論していいかもわからず、私は言われるがまま、違反を認めてしまったのだ。
警官は、満足げな表情で、私から書類を受け取ると、私に違反金の払い込み用紙を手渡した。
金額は6千円。再就職したばかりの私にとって、痛恨と言っていい出費だった。
その後、私はすぐに違反金も支払ってしまった。支払期日が短かかったこともあるが、何より、忌々しい払い込み用紙を、いつまでも持っていたくなかった。
だが、手元から払い込み用紙が無くなっても、心のもやもやが消えるわけじゃない。
わだかまりを抱えたまま、私は翌日も配送に出た。
すると、左折予定の交差点の少し手前に、大型トラックが停まっているのが見えた。そのトラックのすぐ脇まで、オレンジ色の線は伸びている。
つまり、左折レーンに入るためには、どうしたってオレンジの線を跨がなくてはいけないのだ。
今までなら、特に気にすることもなく、左折レーンに入っていただろう。この場合、オレンジの線を跨ぐことは致し方ないことなのだから。
しかし、昨日の苦い記憶が甦る。どういった場合でも、オレンジ色の線を跨いだ違反だという警官の言葉が、耳にこびりついていた。
倫理的に正しいかどうか、そんな事は関係ない。警官に違反だと言われれば、従わざるを得ない。
私は、また違反切符を切られる恐怖にかられ、キョロキョロと辺りを見回した。
パトカーはいない、その事を確認し、私は恐る恐る左折レーンに入った。
サイレンの音は聞こえない。私はほっと胸を撫で下ろした。だが、すぐに鬱々とした感情が襲ってきた。
これから配送に出る度、取り締まりに怯えなければならないのか。
新人だった私にとって、唯一、人並みにこなせる仕事は、一番憂鬱な時間に変わった。
部屋に戻り、私はぐったりと項垂れた。
スマホでyoutubeを開き、交通違反という検索ワードを打ち込む。
同じような取り締まりにあったという人に、慰められたかったのかもしれない。
そうして、何日か経った後、私は一本の動画を見つけた。
これを見て、私は愕然とした。
前方で停車したタクシーを避けるために、オレンジの線を跨ぐ。その行為によって婦警に呼び止められた動画主は、毅然と反論して違反を逃れるのだ。
そこで初めて、私は道路交通法について調べた。
前方に駐停車車両がある場合には、車線変更が可能。言われてみれば当たり前の話だ。しかし、警察官の言うことは、法律上は正しいのだろう。そんな思い込みに、私の思考は停止していた。
私は猛烈に後悔した。
どうしてあの時、動画主の様に毅然と抗議することが出来なかったのか。
そして、あの警官の言動に、疑念が湧く。
現職の警察官が、こんな事も知らずに取り締まりを行っていたのだろうか。
おそらく、それはあり得ない。分かっていたのだ。私の行為は交通違反には該当しない。それを分かった上で、点数稼ぎに使われたのだろう。
道路交通法について調べるうち、警察官の取り締まりノルマについても目に触れた。
地域によって異なるが、1か月に100件のノルマが課せられる場合もあるようだ。
厳しいノルマに追い立てられ、とにかく件数を稼がねばならない。
警官が最後に見せた満足げな表情は、そんな背景があったからだろう。
私の様な人間は、都合の良いカモだったわけだ。
今回のことを猛省し、次に同じことがあった時は、毅然と警官に言ってやりたい。
「越えちゃいけない一線を越えたのは、あんたの方じゃないのかい?」
完