そっと手を添えて
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あれは確か20代後半の頃、横浜にある多少治安のよろしくない地域に住んでいた時の話だ。
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ぼくの住むその地域は地図上でこそ高級住宅街「山手」の隣に位置しているものの、地理的にはものすごい高低差があり、その地域は山手のまさに真下にあり、アパートの窓からはそびえ立つ大きな崖の断面がずっしりと目の前を塞いでいた。
この崖の上にあるのが「山手」なのだ。
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エアーズロックの上の平らな部分が山手だとしたら、その崖の真下がぼくの部屋だと想像してくれればわかりやすいだろう。
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明るい日差しに照らされた洋風の邸宅が立ち並び、インダストリアルな洒落たパン屋がいい匂いをさせカラフルな花に彩られた公園は芝生も生垣もどこもかしこも綺麗に刈り込まれていて、公衆トイレは常に新築みたいだった。街中にはゴミひとつ落ちてなく、デカい犬が悠然と散歩をしている。きらきら輝く海からは気持ちのよい潮風が吹いてくる。
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空から降り注ぐ太陽の光はその山手に全てを持っていかれ、崖下にあるぼくのアパートの部屋に日が入るのは太陽が一番高いほんの僅かな時間。それ以外の時間はだいたい昼でも暗くて湿っていた。そして土砂災害警戒地域でもあった。目の前は剥き出しの崖である。そりゃそうだ。
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かび臭い畳に弱々しく差し込む木漏れ日。
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その光は神々しくすらあった。
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6畳間の和室とキッチン4畳半、風呂とトイレ別で家賃34000円。
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横浜の中でも山下公園や赤レンガ倉庫にも歩いて行く事ができる立地の中では恐ろしく安く、そして恐ろしく暗かった。その町全体が。
裕福とは太陽の光だ。
幸福とは平らな土地だ。
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この部屋に来たことがある人達はその部屋のもつ雰囲気のすごさに皆一様に驚きを隠せなかった。
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「すごい、、、ね。ここ」
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だいたい皆、そう言った。
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ひとつ問題なのは和式トイレの水流が弱々しすぎて、うんこを流してくれないのだ。
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レバーを押し、タンクから流れ出てきた水はまるでそこに遥か昔から大きな岩が存在していたかのように岩を避け、目的もなさずにただただ流れていった。うんこは微動だにしない。まさか本当に遥か昔からここにあったのかこの物体は?そう錯覚しそうになるほどに。
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そういう時はトイレットペーパーを手に巻き、水流の流れとともにうんこをそっと押してやると、それはゆっくりと面倒くさそうに動き出す。
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安かろう悪かろう。
家賃が安いということは必ずしもいい事ではない、という事をここで初めて知った。
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家賃が安いということは、当たり前だけど収入に比例して部屋を決めているのだ。家賃=生活水準。家賃に払う金額が少ないというのは、それだけこの資本主義社会の中で生きる術に長けていないということでもある。それは、この現代社会に順応できているかどうかのひとつの指標になり得る。とどのつまり、安い家賃のアパートに集まる人達はやはりどこかヘンな部分がある。
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そのヘンさが東京の東円寺や中野なんかだとお洒落なヘンさ、夢のあるヘンさなのだろうが、この横浜の荒んだ環境では、甘っちょろくないリアルなヘンさなのだ。暴力的なまでに。
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もっと簡単に言ってしまえば、2つ隣の住人は一人で合法ハーブか何かを頻繁に吸っては大声で騒いでしょっちゅう警察が来ていたし、下の部屋の住人もやっかいな男色化だった。全てが灰色で貧しかった。
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資本主義が抱える様々な問題があるにしても、結局のところぼくらはその中で理想と折り合いをつけながら生きている。
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完全にそこから離れた人達はある意味で理想郷、桃源郷にいるかの様に見えるが、結局のところ
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「資本主義から離れて生活する為にはけっこう金が必要だ」
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というある意味矛盾した部分に帰結してしまうんじゃないかとも思う。
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チェーンソーはガソリンで動くし、太陽電池は高価でメンテナンスが必要で、木材もガラスもただではない。車は乗っていれば壊れるし、家だって傷んでいく。そしてそれらすべてを直すにはやはり「金」が必要だと。原始的な知恵だけではネジは作れないし、情熱だけではチェーンソーは動かない。
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時間とお金、夢と現実のはざま。クラウドファンディング。大量のガラクタ。モノづくり、生活。
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観覧車のまわるきらびやかな港町と小便臭い場外馬券場付近の飲み屋街。太陽が降り注ぐ高級住宅街と崖の下の暗い町。浄化運動。活気のなくなった赤セン地帯。死んだガード下。人気のハンバーガー店。
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目が眩みそうになるほど強烈なコントラスト。
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暗いトンネルを抜けた先が眩しすぎてあたりが真っ白に見える。
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収縮を頻繁に繰り返す瞳孔。
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横浜の魅力とは歩いているだけで強烈にコロコロとvibesと表情を変えるその町並みなのかもしれない。
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