「はみ出すこと」は贅沢なのか? 466
メールチェックをしていたら「オッス!おらルフィ!」なる題名の迷惑メールが届いていて「迷惑メール界隈もいよいよ極まってきているのか…」と色々察しつつも脱力させてもらった朝。
おはようございます。
さっき、モーニングページを書いていてブワッと蘇った記憶があった。
モーニングページはそもそも自由に書いていいというルールのもと書くノートなので、基本ちまちま書きたい気分の時はちまちまと、気持ちが溢れ「んがぁぁぁ!」と書き殴りたいときはダイナミックにと、個人の自由に書いていけばいいものなのだけど。
手書きで書く字は、こうやって画面に並ぶ文字よりもずいぶんと個性があって、わたしにはいくつかついつい縦長に書いてしまいがちな文字がある。
「す」とか「り」とか。
そのクセは学生の時からで、誰に見せるでもないモーニングページのような場では尚のこと登場率が高いのだけど、その何をどう書いてもいい場で方眼ノートの縦2マスを使って「す」を書いたときに出てきた思いが
「贅沢な使い方」
だった。
…ハズい。
縦2マスで贅沢って…普段どんだけ切り詰めてんのさ?と聞きたいところだけど、そんなココロは持ち合わせていないことはよく知っている。
じゃあ、他の文字はしっかり縦1マスに収まってるの?と見てみると…
そんな状態の行の方が少ない。
グダグダのハンドライティングのノートに何でそんなことを思うんだ?と考えてみる。
「贅沢」って思うってことは、普段そうじゃないってことでしょ?
でも、普段キチキチとそんなことはしていない。
ということは、どこかで「文字は一行に収まるように書かないといけない」って思ってるってことだ。
「行の中に収めなければいけない」と思ってる?…とつらつら思い巡らせていると…
「キュークツっ!これ、ほんとにキュークツ!苦しい!」と喉の下、鎖骨の下あたりがグーっと詰まってくるように感じる。
その体感に「うわ!これっ!知ってる感覚!色々思い当たる感覚!」とブワッと蘇った記憶は中学の国語の時間。
もちろん、中学生のわたしは手書きでノートに文字を書いていたのだけど、その時の担当の先生がわたしの文字を見て
「そんなところで主張しなくていい!行に収めなさい!出よう出ようとするなんて恥ずかしい!」
みたいなことを言ったのだけど。
当時のわたしは「主張しよう」とも「出ようとしている」とも、それ(書いている文字が。抜きん出ようとしていることが恥ずかしい、とは頭が回っていなかった)が「恥ずかしいこと」とも思っていなかったからまぁまぁの衝撃だった。
年配の女性の先生だったし、祖父母世代の感覚をつらつら思い出すに、そういうところを「恥」と思うこともあるかもしれない…とは想像できた。
今になって思うと、先生は「守破離」のスタートのことを言っていたのかもしれないとも思うし「主張や自分の色を一旦捨てて100の教えを吸収しろ」みたいなことだったのかもしれないけれど…まぁ当時は無理だし、普通の国語の授業だったし、正直今でも自分個人のノートの文字にそれを言われても、その教えを反映させる場所にするかどうかは個人次第でしょ、とも思う。
この「贅沢」と思った時の体感と、その「キュークツ!」の体感が同じだったことはわたしにとっては大発見。
というのも、この感覚、相当やってきた覚えがあるのです。
「これは主張し過ぎになるのでは?」「これは自己顕示では?」みたいなことが頭をよぎると自動的に体はこの「キュークツ」になる。
それは「肩に力が入る」とか「息苦しさ」で捉えていたように思うけれど、この「はみ出すな!収めろ!」がそこにあったとは…。
無理でしょ、それ…と我ながら思うよね。
そして、最近まさにこの「喉の下、鎖骨の下」辺りが詰まっている感じが大きくなってきて「抜きたいなー」と思っていたのだけど、これが「何なのか」よくわかっていなかった。
ただの姿勢の悪さからなのか、肩こりの続きか、腕の使い方が悪いのか…
何由来かもわからず、ただただ「リンパ流してみる?」「腕ぐるぐるしてみる?」みたいなことをやっていた。
そんなところに、思わぬ方向から大ヒント、もしくは答えがやってきた朝。
「オッス!おらルフィ!」よろしく、こちらも脱力できてよき時間でした。