抜けているのは〇〇だ 582
ただいま冬の土用期間ということで。
「土用」と聞けば「消化器の調子をとる時期」みたいな印象もあるのだけど、なるほど胃腸風邪だったり体は自然の流れに則して動いてるねーなんてのんきに思ったりする。
体調が崩れることは確かに辛いから嫌われてるし、それも仕方ないことなのだけど、決して「悪い」だけじゃないってことはよくよくわかる。
抜け切った後のスッキリさはいわゆる「体のお掃除」が完了したサインだと思っているし、そこは自分でやろうと思ってもできないところまで動くんじゃないか?調整されるんじゃないか?なんて結構本気で思っている。
そして、同様に「お掃除」といえば身の回りのことも入ってるよねと思っていて。
ここから節分までの土用期間に掃除や断捨離をするのもいわゆる「流れに乗る」ってことかもしれない。。
今月の29日は旧暦のお正月でもあるし、なおのこと。
昨日、目の使い方のことを書いたのだけど、それは頭の後ろから見るように見方=目の使い方を変えてみると視野が広くなって目が楽に使えるというもの。
これが不思議なことに目に映る景色の何かが「抜ける」のだ。
もとい「何かが抜けている」ように感じられるのだ。
最初は「色?色が抜けて見える?」と思って、力を入れたり抜いたりして確認してみるも…どうやら色じゃなさそう…。
まるで、スマホのカメラで撮影のトーンを変えた時のようにテイストが変わる感じ?なんてことも思ったりしたけれど…そういうことでもない。
でも、よくよく眺めていると思ったのだ。
「抜けているのは『意味』だ」って。
別に目の前の景色の全てに意味があるときばかりじゃない。
ただの通りすがりで、そこに思い入れなんてつきようもない場所だってある。
今後の人生で2度と見ない景色だってたくさんある。
でも、そういうことじゃなくて、どちらかというと「ただのモノとして目に映る」というか「素材もしくは物質が構成要素としてただある」という感じ。
毎日お世話になっているストレッチポール
「ホントは蓋付きのがよかったんだよなぁ」なんて思っているゴミ箱
一人暮らしの時からのコロコロ
立つと全身が映らなくてちょっと不便を感じている鏡
みたいなものが、頭の後ろから見ていると「ただのストレッチポール」に「ただのゴミ箱」「ただのコロコロ」に「ただの鏡」になる。
ただそこにあるモノたち、になる。
そこに、わたしが勝手にくっつけた感情も愛着もエピソードも意味もない。
ただその景色の構成要素のひとつとしてそこにあるだけ…そんな風に目に映るようになると感じて、ちょっと不思議に、ちょっとおもしろく感じている。
いきなり無機質になるというより、写真の中を見ている感じに近いのかな…。
ただ目に映っている感じ。
そう「映している」んじゃなくて「映っている」感じ。
で、土用期間だから体だけじゃなくてお家の掃除や断捨離…と考えた時に「この感覚で家を見回してみるとどんなだろう?」なんて思ったのだ。
この感覚で雑巾がけをしたらどんなだろう?
この感覚で必要あるもの、ないものを眺めたらどんなだろう?
そんなことを思いつくと「いつもと何が違うのか」を知りたくなり、まずはちょこちょこと拭き掃除をしてみた。
やってみると…別にね、いつもの拭き掃除と変わらないんですよ。
やってる動作も変わらないし「きれいになる」とか「出来上がりが良くない」とかそんなことも大きくは変わらない。
そう思うと「あんまり大きな変化はないのかも」なんて思うのだけど…違うのだ。
これね、頭の中が無音になる。
「こんなことやって…」とか「あの時の…」みたいなジャッジとか記憶とかいわゆる感情や思考が動かない。
ただ作業するということの純度が上がる感じとでもいうのか。
わたしは好きな感覚だった。
こういうことを学校では「真面目にやれ」みたいに言ってるんだとしたら…
言い方というか、ガイドというか、誘導がナンセンスってことじゃないの?なんていらんことも浮かんでくるけど、そういう時は「いつもの目」なんだよねw
その目の使い方をやるということ自体に慣れていないため、集中するからそんな感じになるのか?なんてことも考えるのだけど…案外、それだけでもないように感じている。
お試しがてら、この土用期間中にこの目で断捨離をしてみようと思っている。
いつもと見え方、心持ちが何か変わるのか?
どんな風に感じるのかはしっかり見つめながら、目に映る景色を「その見方」で見ながらすすめる断捨離…どんなことになるのか、ちょっと楽しみになってきた水曜日の夜だったのでした。