「見る」の中身って… 541
冬至も近くなって日の出の時間も遅くなっている最近の朝は…
モノが見えにくい。
って、照明をつければいいだけの話なのだけど、あの夜でもないぼんやり薄明かりの「今から明るくなるのはわかってるんだけどさぁ…」みたいな感じの時間。
見えなくても仕方ない感じ。
逆に人工的な灯りを白々とつけたくない感じ。
逆に「いや、見えないと色々出来ないでしょ」っていう、これから足を踏み入れる「現実世界」の足がかりのような心。
そういういろんなモノがぼんやり存在している時間を今朝も眺めていた。
「見えづらい」とか「目がつらい」みたいな状態がやってきてしばらく経過しているのだけど、そもそも「快適になりたい」の前に「見えるように…」って思うのって不思議だなぁというか、なんならちょっとおかしいかも?なんて思えてくる。
図々しいみたいな感じも混じってるけど、そもそも「見えないといけないんだっけ?」なんて問いが出てくる。
「見えることが普通」みたいになったのは、おそらくメガネをかけるようになってしばらく経ってからだから中学、高校の頃だろうと思うのだけど、実際メガネをかけないといけないと言われてかけ始めた頃の自分は
「そんなにしてまで見ないといけないモノなの?」
なんて思っていたことを思い出す。
学校の黒板も、遠くの張り紙も「見ないといけないもの」として強く押し出されてきたけれど、わたしにとっては「見たいもの」ではないことはハッキリしていた。
似たような感じでは「人の気持ち」とか「世の中の正解」とか。
移り変わったり、そもそも正解なんてなかったりするのに…。
それがいつから「見ないといけないもの」「見るべきもの」「見たいもの」が混じりだしたんだろう?
そんなの、本来水と油くらい混ざらなさそうなものじゃんか…なんて布団の中で巡る思いは続いていく。
それって「知っておくべきこと」みたいな刷り込みから始まって「見ておきたい絶景◯選!」「目撃!世界の〇〇」みたいなことまで、大して興味もないけど「ある体で」知っておかないといけない、みたいな。
常識だ、ノリの良し悪しだ、社交のためだ…
今の時代にこんな文字が並ぶとスッカスカなのが良くわかる。
きっと、自分で勝手に視点を混ぜたのだ。
自分に必要なものも
今いる世界で生きていくために必要であろうものも
これから行くかもしれない世界で必要かもしれないものも
大括りに「必要」って言葉に混ぜ込んだんだ。
耳から聞こえるもの(音・会話・音楽・情報など)にも同じことが言えると思うけれど、きっと「見方」があるというか「距離」のとり方、「取捨選択」の必要なんかがあるんだと思う。
見方だったら…
目に映る・眺める
距離を持って見る
関わりを持って見る
自分ごとにして見る、とか?
んー…「身体からの見方」と「心からの見方」で違うような気もしているけれど、抱き合わせ案件も多いように感じる。
例えば「眺める」も「力を入れずに見る」ってことは「ただ眺める」「目に景色を映す」って色が強いのか、そのものや人と「距離をとって見る」「期待をせずに見る」ってことなのか。
いろんな意味を含めてしまうよね。
片付け上手な人がついつい溜まりがちなDMを玄関みたいな家の中の早い段階で選別するなんて話も聞くけれど、それと同様できっと思った以上に早い段階で、それを自分の中にどう入れるか、決める必要があるんだと思う。
距離をとって眺めるか、耳を閉じるか…「分別」が必要というか「決める」動作が必要なんだと今頃気づいたりする。
ずいぶん最初の段階で、人間は肚を問われてたんだな…。
本当は「見る」のバリエーションがたくさんあって、わたしたちはそれを明確に教わったりすることもなく、自己流で雑にやってきた。
もちろん、習っても真似ても自己流でも全く自由なんだけど。
ただ、本の時代にはなかったスマホの画面サイズの小さいものを凝視するような目の使い方から生まれる「偏り」は、物事の判断から自分の感覚・思い込みまで、思った以上にわたしたちの中に影響しているような危うさも感じる。
何が危ういって、自分が気づかないうちに…ってとこかなぁ。
「見る」か「見ないか」もだけど、「どう見るのか」「どう見たいのか」…
小さなことだけど、意識してみてもいいのかもしれない、なんて思った日だったのでした。