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履いたばかりの靴下を脱ぎたくなったときに気づいたこと  444

秋が始まったと思ったのに、なんだか室内の温度計は朝から30度表示だし、「猛暑に気をつけて」なんて言われると「台風の後は一段ずつ涼しくなるってやつ、どこ行ったの?」なんて真顔で天気予報に質問してしまうのだけど。

そんな今朝、パジャマから着替える時にはいた靴下を朝ごはんの後どうにもガマンできずに脱いだ。
途端に息を始める肌、開かれる足指。

でも、包んではあっただろうけどぴっちりキチキチの靴下でもなかったんだから、この開放感は大袈裟では?なんて自分でも思うのだけど、やっぱりどうしてその時の感覚は解き放たれた「解放感」なのだ。


最近、体を眺めていると本当に自分は「体の声」を「頭の声」や「心の声」として扱ってごちゃ混ぜにしてたなぁとつくづく思うし、体の声をキャッチするってことが素早くできないということが分かって、あまりのできなさにまぁまぁ驚いた。

虫刺されができて痕が残るかも
かかとガサガサが近づくかも
日焼けするかも
冷えるかも(←猛暑に文句言ってるのにサラッと出てくるのがこわい…完全に体感と離れてることすら気づくのに時間差という…)

ここまで聞けていないとは…
ここまで感覚が鈍っているとは…。


朝の靴下だって、履いておこうと思えば履いていられるのだ。
これ「だって仕事だから…」とか「大人として…」とか「おしゃれだから…」それらしい理由を出したなら、簡単に「それは仕方ないよね」なんて言ってそのまま履き続けてしまう。
それを自分が「ガマンしている」「ガマンさせている」とも思わずに。

冷えとりをしていた時なんかは、小さな子がうちに帰ってきてすぐ玄関で靴下を脱いじゃうなんて聞くと「そういうもんかー」みたいなことを言っていた。

その時の自分には「正しいことをしている」とか「必要なことをしている」という頭があったからか、その靴下を履いているという状態を「不自由に感じる場面」はあれどもっと体感覚に近い「窮屈」と捉えていなかった。

今考えると本当に不思議なのだけど「自分の感覚が麻痺している(麻痺させている)」なんて思ってもみなかったし、「窮屈」という不快な状態が続いていいわけないじゃん!という感覚すら「ガマン」の範疇に収めていたんだと思うと「そりゃ病気にならんわけないわ」ということがよくわかる。

ガマンは日常だったから…

これもまぁまぁほっといていいことじゃないけどね、と今なら思う。


首が詰まるように感じるから首元は楽なものを
気持ちいいから裸足で
汗を吸ってくれるものがあると快適

これって「わがまま」じゃなくて、叶って、叶えていいことなんだよね。

言葉を「乗せる土俵」を間違わないようにしないとね、なんてことも思う。


もっと快適でいいし、もっと楽に息ができるようになっていい
もっと気持ちよくていいし、もっとほどけていい

小さな「傾き」をそのままにしないように、慣れてしまわないように

子供が小石をつまむように、小さな「ガマン」小さな「不快」をはずしていける感度を忘れないように、忘れても忘れたことを思い出せるようにありたいもんだ…なんて、裸足の足を見ながら思った朝だった。




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