「便利」のその先、「関わった」その先 527
昨日の続きか、風が強くて雲がお日様を遮ったり通り過ぎたりと忙しいから、このパソコンの画面も陽射しのあるなしで明るくなったり暗くなったりしている。
「そんなに合わせてくれちゃうのね…」
なんて、感心とも困惑ともつかない心で画面を見ているけれど、この現象を「便利」と呼ぶ世の中になって、思った以上に時間は経ってるんだよねぇ…なんて、これまたなんともいえないぼんやり加減で思っている。
今読んでいる「ランド」でも、歳をとらないように自分でストップかけられちゃうとか、ストレスが溜まったらその回路をタブレット上でリフレッシュかけて、あっさり回復しちゃったり…と「便利」を極めた世界も描かれているけれど。
今朝SNSで流れてきた動画では、ワイヤレスのイヤホンに入っている機能で、その人が何を考え何を見ているかによって、その人のスマホにどんなCMを流すかを変えられる…みたいなことを言っていた。
もはや「漫画の世界のことだよねー」じゃない、現実の世界だって片足どころか両足突っ込んでることに、なんだかゾワっとする。
「それって必要なのか?」なんて。
さて、そんな世界が外側で展開されているわたしの内側では何が起きていたかというと…。
朝、靴下を履く前に足指をモミモミしていた。
寝る前にももんでるから、朝ももむようになって「前から比べたら、自分のカラダによく触るようになったよねー」なんて我ながらうんうん頷きながら「こんな日が来るのか」みたいな心で手を動かしていた。
もう10年ほど前になる。
導引術を習いに行った時、その先生が話してくれたことの中に
「押入れの中に何があるのか、自分の服にどんな状態のどんなワードローブがあるのか全てわかっていることは大事」
という話があった。
そういうことも全てつながっている、と。
「うぇー、荷が重い。自分や家族の全部なんて無理ー」なんて反応をしていたわたしだったけれど、当時はミニマリストみたいな言葉もなかったように記憶しているし、「ちゃんと片付いている方がいい」みたいな内容として聞くこともできたんだろうけれど…ここでそんな話をするわけはないことはわかった。
ということは「全てを把握すること」に何があるってことなんだろう?
支配とも違うだろうし、節約とも違うだろうし…
「ちゃんとしときなさいよ」って言われたような…その「ちゃんと」は今のわたしの思い描ける「ちゃんと」じゃないような…
と、結局その当時の自分はその真意がわからないままだった。
それは、生活の中のこと(=自分の目に映ること)だけじゃなく、自分の身体の手入れをしていくことでも同じだと思うようになったのは自分が実際やり始めてからのことで…。
身体のことなんて、調子がいいか悪いか、風邪ひいてるかひいてないか、くらいのことしか感知していなかったのに、呼吸だ、筋肉だ、丹田だみたいなところに頭を突っ込んだもんだから、わからないままぼちぼちやっていくしかなかった。
「なんか足首傾いてない?」みたいなことから骨格を気にし始め
「骨格といえば姿勢でしょ」なんてことで肩甲骨や背中をほぐし始めたら
「足先の冷えなんともなってないじゃん?」みたいなことからもう一回足先のほぐしや手入れを始めて
そうこうしてたら「骨といえば、外せないのは骨盤でしょ」みたいなことから腰周りへ意識は移り
「足先とか言ってるけど、相変わらず手先も冷たい!なんなら腕もダルい!」みたいなことから「腕ってなんなん?」と身体における働きなんかも知り始め
「腕動かし始めたら肋骨との関係大きいじゃん!呼吸じゃん!」みたいな流れになったかと思ったら
「お尻、ホント盲点…ここ、結構な大事さじゃないの?」みたいな流れと並列して「頭…怖がって触ってなかったよね…」なんてゴソゴソ触り始め…
そう、部分を重ねていきながら自分の身体をくまなく観察し、触って、以前よりも知るようになった、いや…以前よりも興味を持って関わるようになった。
ということは…結局、全部やるってことなんだ、と知ったということになる。
「全部なんて無理」なんて身体だけじゃない、いろんなところに感じることだけど、順番こそあれ、結局全部を知り関わっていくことになるってことなのかもしれない。
んー…関わり「続ける」ことになるの?
それが暮らし、それが生きるってことなの?
ちょっとグルグルしてくるし、落とし所は今のところわかっていないけれど。
自分の手先、足先から、夏のヨレたTシャツまで、わたしと縁のあるものに興味を持って関わり続けること、神経を行き渡らせること、行き渡らせることのできる範囲が「わたし」の範囲。
行き渡らせることが出来たなら、地球全体も、宇宙さえも…みたいな?
だとすると…それは「支配する」とか「管理する」みたいな触れ方、関わり方とはちょっと違うんだろうと思う。
それって、とても今までっぽい。
知ること、観察すること…
触れること、そこからわかること…
そんなことを考えていると「…イヤホンが人間にすることと同じことでは?」なんて思ってしまうけど…
「いやいやいや、ホントの人間はそこまで安直なCMは流さないのよ」
と悪い顔をしながら思ってしまう。
いつもCMに「(話している内容)聞いてるんならもっとエッジの効いたもの勧めてきて!」とダメ出ししているわたしとしては、「便利で楽にしてあげる」は「イヤホン側」の今までっぽい関わり方なんだよね、と感じる。
じゃあ、逆側ってどんななんだ?と思うと…
今のところ「ゆっくり」で「イヤホンから見たらダサい」けど「鍛えて見出す」みたいな、「育んで」いくもの?みたいなイメージ。
「ある」ことを知ってる、わかってるイメージ。
…って、ぼんやりし過ぎか。
でも、そういう「違い」をひしひしと感じ、書かずにいられなかった強風の一日だったのでした。