出会いなおしの夕暮れ 391
今日は海の日…
とはいうけれど、なんだか毎年「そうだよねっ!海の日だよねっ!」と盛り上がらないのは不思議なもので…。
そんな三連休の最終日、晩ごはんを作っていたら服部みれいさんのインスタライブが始まった。
今日が習っているピアノ教室の発表会だったようで、発表会の後、ご自宅でピアノを弾きつつお話しつつ…というライブだった。
最初にバッハのインベンション1番を弾いてらしたのだけど、その音がなんというか…とてもよかったのだ。
わたしとしては久しぶりのピアノの音。
ピアノ教室で聞いた覚えのある曲。
習っていた「その頃に戻った」のではなくて、その曲そのものの世界に足をついた感覚だった。
習っていた頃のわたしの感覚では、こういうピアノ教室で聞こえてくる曲(世の中の誰もが知っているようなメジャーな楽曲ではなくて、練習する場所でメジャーな曲)は無機質というか、下手っぴにはとりつく島のない世界というか、機械的というか…。
感情だったり体だったりが躍動する日常からかけ離れて「ただ刻む」ような要素にばかり目がいっていて、そこになんとか「自分のやるべきこと」を見出そうとし続けてたように記憶している。
だから、先生が「かわいい曲よ」と紹介してくれても、どのあたりが「かわいい」のかさっぱりわからなかったし、ピアノを弾くことに「うれしい」と感じることが薄らぎ続けていたと思う。
その頃から手だけは大きかったので(今でも旦那さんよりわたしの手のほうが大きい)勧められる曲も大きな手の人だからこそ弾きやすい知らない曲だったりして、まぁ尚のことモチベーションはガッタガタに下がっていた。
今なら先生の「よかれ」はよくわかるし、なんならニヤリとしながら「やります!」って言えるかもしれないけれど、小学生の自分にそのココロはなかったなぁ…まぁ仕方ない。
そんなだったピアノ生活からずいぶん離れていた今日、みれいさんの弾くピアノは、なんというか…白い大きなお皿に余白がたっぷりとられて盛られたお料理のように感じられた。
自分の手の届かない高尚な、ルールの方に頭を持っていかれて料理の美しさやおいしさを全くスルーしてしまうようなものじゃなくて。
蛍光灯の灯りの下じゃなくて、柔らかい日差しの入るお部屋でリネンのクロスの上に差し出されたお皿のように。
見たことも聞いたこともないような食材じゃなくて、知っている旬の野菜や果物がちょっといつもと違う佇まいでいるみたいな。
「どう聞くのが正しい?」って頭が探すんじゃなくて、「そうか、こういうピアノ曲は小さな刻み(タッチ?)がこんなにかわいいものだったんだ」と自分の背中側から思いが流れてくるような。
クラシックの世界の余白はただ高尚さやお作法を見せるためのものじゃなくて、ちゃんと音と共に柔らかさや空気を含んで画面越しでもしっかり伝わってくる、そんなものだったんだと改めて知った時間だった。
きっと、ずいぶんと長く離れたこの時間があったからこそこんな風に思えたんだろうし、だとすると「離れること」って悪いことじゃないよね、なんて思えてくる。
もっというと「出会い直せる」なんて、ちょっと贅沢なチャンスが勝手に用意されちゃうなんてお得感まであるじゃないか…。
久しぶりの柔らかい空間との出会いにグッとしあわせを感じた夕方だった。