500日雑感 500
しっかりめの雨降りだけれど、家の中も外も同じような温度で暑くも寒くもなかった一日。
そんな今日は11月のはじまりの日で新月。
そんなタイミングでこのnoteに500回めの文章を書いている。
なんだか不思議な感じ…「続けられた」ということ自体が不思議なことのように感じている。
500日といえば一年を超えている…でも、そんなにも続けて書いたという実感は…実はない。
どうやら自分は「続ける」ということの体感が薄いのでは?わかってないのでは?なんて思ったのだけど…そんなこともなくて。
というのも、身体については毎日何かしらの「ほう…」とか「なるほど」を感じられていて「積み重ねることで生まれる変化がある」ということは体験している自覚がある。
自覚があるってことは「わかる」センサーはあるってことだ。
でも、この文章を書き続けるということへの「続けている実感」が「これ」という体感がないのだ。
いや、パソコンのキーボードは叩いている。
スマホの画面のタップじゃない、連絡や会話をしているんじゃないということは頭ではわかっている。
でも、ない。
じゃあ…「実感」って「手応え」のことだと思っているってことかな?
それでいけば「書き続けているという手応え」ってことになるけど…
書き続けて得られる手応えって…何?外からの反応?文章が上手になるとか?
んー…「実感」よりも近いような遠いような…パッとしない。
じゃあ、わたしは何を書いているのか?
そもそもこのnoteを始めたきっかけが、どのSNSでも活動していない自分が唯一「動く場所」として稼働させたのがここだった。
その日にあったこと、考えたことなんかをとりとめもなく書き連ねる場所。
…日記じゃないか、なんて葛藤はいつでもあるのだけどw
でも、書くことは決めたのだ。
書き続けることで何か見えるのか?何かあるのか?
(あるっていっても書くことで「何か出来事が起こる」というより、自分の中の気づきみたいなものの方をイメージしてる)
そうだ、その先を見てみたい、それだけだったんだ。
もっといえば「自分は書き続けられるのか?」ただそれを試してみたいだけだったかもしれない。
なんだかわからないけれど、ちょっとホッとしてきたかもw
自分の誕生日に近いからか、この時期は毎年何かとバタつくことが多いのだけど、今年も目の前はそんな感じで動いていて、なるほど「生まれ変わり」なんて大袈裟なものではないにしても何かしら変わっていっているんだとわかる気がする。
ざっくり折り返し感を感じている今日、勝手にちょっと節目感を感じたのだった。
新月のせいなのか、はたまた数字のせいなのか?
とにもかくにも、明日からもまた歩くのだ。