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冬至点前に  550

あと1時間くらいで冬至点を迎える、そんなタイミングで書いている。

午前中に友達からインフル報告が届いた。
エネルギーに敏感な彼女がこのタイミングで熱が下がらないというのも、インフルだけが原因じゃないように感じるのだけど…そんなことは大きな声では言えない。
(本人には伝えたけどさ)


先日「価値観を真似る」みたいなことを書いたけれど、価値観ごとコピーするほどその人物(もの?場所も?)から影響を受ける、そういう影響の受け方をする、みたいな意味で書いたつもりだった。

で、その「影響を受ける」っていうのも、わたしは「影響を受ける」と決めてそうするか、無意識のうちに影響「される」のかでは全く違うと思っていた。
影響されたいものなら無意識のうちにそうなっていたらうれしいけれど、そうじゃないものが無意識のうちに…なんて思うとまぁまぁ困る。

願わくば前者でいきたいものだけど、そういう習慣を身につけるというか、そういう習慣に意識的になるまでは「気づいたら巻き込まれていた」なんてこと普通にあるよなぁ…なんてことも思っていた。


この冬至みたいな「惑星サイズ」の切り替えなんて、おそらく地球に住んでいたら「いいえ、わたしは影響を受けません」なんて決めようが、逃げ回ろうが、何かしら余波は受けるだろうと思うし、だったら「わかっていて受ける」「観念して影響を受ける」というか「影響を受けることを受け入れる」って姿勢でありたいもんだなんて思ったりする。


別に彼女が「そうはなりたくない」ってあがいているとも思わないし、エネルギーに敏感だからこそいろんな体験・体感があるとも思っている。

そんなことを考えていたら、視えたり聞こえたりしないわたしでも
「このしもやけは冬至の変化で炙り出された排毒ではっ?」
なんて劇的に考えられなくもないけれど…まぁ、冬の血流不足だよ、うん。


最近「気の詰まりは血の詰まり」なんて言葉を聞いたけれど、なるほどそういうことなら身体で起きている事象を想像しやすくなるかもしれない。
感じられることからも、感知できないことからも影響を受けているってことだ。

きっと、わたしたちが現在わかったように思っているようなことも、びっくりするくらいシンプルな機序で動いていて、わたしたちは拍子抜けするような日が来るんじゃないかと思ったりしている。

冬至点に何を願うか、何を決めるか…
実はまだハッキリ言葉にできていないんだけど。

あるならば、やってくる流れに逆らわないでいようとは思っている。

そして、もっともっと脱力していこうとも思っている。

骨を意識しながら日常の動作をするようになって「こんな時にもこんなに力入れてたの?」とか「ここでこんなに力んでも、その力使うところないよ…」みたいなことが山ほどあることがわかった。

こうして書いていて思ったけど、この力みを緩めるために、身体は甘いものを欲していたのかもしれない。
そして、力を抜いても身体がシャンとするように何か「詰めよう」としていたかもしれない。


そう考えると、地球も、それぞれの国も、地域も団体も個人も、そしてその個人の身体も同じだけれど、結局は「良き方向へ流れる」「流れようとしている」んだと感じる。

もうすぐ迎える冬至点。
個人の願いや祈りも、大きな願いや祈りも、巡り巡って「よき方向へ」向かうものならば、安心して心から願い、祈ったらいいんだと、ちょっとホッとした。

さぁ、リラックスした意識と身体で迎えられるよう、少し静かなところへ移動しようかな。


みなさんも、よき冬至点をお迎えください。





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