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言葉にしないと「ない」ことになる?  530

夕方になって突然、左手の中指がヒリヒリし始めた。
昨日だったか今日だったか、そういえば野菜を蒸してる時に左手が鍋をかすって「あっつ!」と叫んだような気がする…なんて今頃思い出す。

「こういう痛さ、好きじゃないんだよなぁ…」
「痛いのが好きな人なんていないって…」

なんて思いつつ、仕方なく別のところへ気を向けようとする。
別の指の爪のきわが腫れていることに初めて気づく
小指の関節にも水ぶくれができてるじゃん
っていうか、上唇に違和感を感じてよく見てみたら口内炎ができそうな気配…?

さっきまで気づいていなかったこと、どんだけあるん?
しかもあんまり歓迎したくないことが次から次に見えてきて「重なる時ってこういうもんか…」なんて頭では思うものの、体と気分はグンと重くなった。

それをきっかけに、冬特有の体のズシッと、ミチっとくる感じが思い出され「それは今年は避けたいなー」なんてジリジリと危機感が生まれてくる。

…珍しい
よっぽど冬の体の重さが不快だったってことだ。

はっきり「あの体感は不快だった」と言語化してこなかったから、今まで自分が「不快」だってことも認識がなかったってこと?
こんな不快が重なるようなことがなかったら、それを「不快なこと」「避けたいこと」と認識しなかったってこと?なんて思うと、モヤモヤというかふわふわしたまま思いが「言語化されていない」ということの危うさを思い知ると同時に、「自分のことだからわかるでしょ」は通用しない、というかしていないということもよく分かった。


違和感とか不快とか…
みんな自分の感覚にどのくらいのバリエーションというかグラデーションを持ってるんだろうなぁ…なんて思う。

言語化しようとすると「細かく当てはめる」みたいな作業になることがあるけれど、言葉自体が自分の感覚を表すのに足りない=今の状態がピッタリ当てはまる言葉がないこともある。

でも、自分が感覚を拾えていない場合「言葉と体感を無理やりひっつけてみる」=「体感やモヤモヤに題名をつけてみる」みたいなことでもしないと意識にあげられもしないってことなのか?
「この言葉と今の体感は距離があるけれど…でも言葉にしてみる」みたいなことをしてでも、自分の気持ちや体感が「ある」ってことを拾い上げる練習をしていかないと「ある」ってことすら「ない」ことになるってことなのか…?


もはやすでに冬の重さに飲まれちゃってるのでは?なんて思えてしまうこの感じ。
12月の最初…なるほど、今日は新月だ。
新月だからなんて理由になんないけどさ。

音とか言葉とか、気持ちとか体感とか…
豊かだけど面倒だなぁ…なんて思ってしまう。
なんだかこの一年の感想ですか?なんて思えてしまうじゃないの…。

はい、こんな低空飛行の日はとっとと寝てしまいましょう。
あったかくして、ね。




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