「入れ方」にも気をつけて 502
昨日の雨がウソみたいに穏やかなポカポカ陽気の日曜日。
そんな穏やかな日の朝から、頭の中は明菜ちゃんの
「はぁっぱー、かけたげーるー、さぁカター、つけてよー」
の歌がぐるぐると回っている。
特別明菜ちゃんのファンってわけでもないし(だからって聖子ちゃん派ってわけでもない)、近々「昭和の歌」「懐かしの…」みたいな番組を見聞きしたわけでもない。
時々こういうことがきっかけもなく起こり、別に嫌いじゃないけれど、だからってなかなか通り過ぎていかない…という、気になりだすとなんとも複雑な気分になることがある。
そもそも、明菜ちゃんはちょっと上の世代がオンタイムだったはずで、わたしの頭の中を回っていたこの歌はサビの部分こそ知っているけれど、題名は…忘れてしまった。
「ザ・ベストテン」なんかで聞いてた時も、意味も分かってなければ良さがわかるほどの人生経験もないしで「どうやらこの歌が好きな人が多いらしい」くらいの認識しかなかったし、歌詞の認識だって「勢いのあるお姉さんの歌のようだ」とは分かっていても、「はぁっぱー、かけたげーるー」を聞けばまぁまぁの確率でたぬきが頭に葉っぱを乗っけてる絵面が頭に出てくるような始末だった。
でも言ってしまえば、そのくらいの認識でもこうやって突然思い出したりするってことなんだよね…。
「刻まれてる」なんていうと大袈裟だけれど、どんな形にしろ残っている、と。
そんなことを思っていたら、先日聞いた
「ジャンクフードを食べない方がいいってことを知ってる人は多いけど、ダラダラと目的もなくネットを見たり、聞きたいとも思ってない音を聞き続けたりすることも、からだにとってはジャンクフードを入れられているのと同じことだとわかってる人は少ない」なんて言葉を思い出す。
なるほど納得だった。
見たくて見ていても、そうじゃなく見ていても「見ている」ってことに変わりはなくて。
それは「聞く」「触れる」も「味わう」も「嗅ぐ」もそうなんだとしたら…
わたし達はまぁまぁ詰め込まれるように情報と接していることになるのかもしれない。
「江戸時代の人の一生分の情報を、現代のわたし達は一日で摂取している」なんて言葉はもう何度も聞いた言葉だけど。
もしかしたら、食べることのほうがハッキリと満腹感が感じられたり、香りの方が好きも嫌いもしっかり「嗅いでいる」と認識しやすくて「摂取してますよサイン」を読み取るのに簡単かもしれない。
ずっと鳴っているラジオの音、画面の向こうで頼んでもないのに繰り出されるCMの数々…見たり聞いたりしたことを「お腹いっぱい」とはっきり認識することは、お腹の満腹よりも察知するのが遅れる人も多いんじゃないかなぁ…なんて、勝手に想像する。
わたしの最近の感覚では、本を見るときの静かな感じにほっとする。
読みたいと思って手に取った文字しかない、というシンプルさからなのか、それが安心になっているのか、それとも「動き」がないからか…。
いずれにしても、最近は本の存在に救われている。
SNSの「こちらが選ばないけれど差し出され続ける情報」を流し見ている時のことを、以前は「まだ知らない面白いこと、好きなこと、楽しいことを知れるチャンス」くらいに思っていたけれど、それが自分のどこかを「詰めている」ということが実感できたのは、割と時間が経ってからだった。
そんなことを思いながら、庭で猫とぼんやり過ごす午後。
結局こういう時間が人間には必要なんだ…ということは「ジャンクだから」っていう理由というよりも、自分が思う以上にわたし達には「余白が必要」ってことなんだろうなぁ。
なんて、余白ができたから思い出した明菜ちゃんの歌の題名は「十戒」だった。
…覚えてるもんだ。