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わたしも世の中も「ねじれてるよね」な話    482

今日はスポーツの日…だったらしい。
「らしい(知らんけど)」ってやっぱり思っちゃうんだよね…体育の日は10月10日派としては←そんな派閥があるのか?

ちなみに、勝手に成人の日も1月15日派だし、海の日だって…なんて色々思ってはいるけれど、つまるところ「こういう変動をフレキシブルって言わないでしょ」と思ったりしている。

日本における「ボランティア」が含む意味合いというか、人が「ボランティア」に求めるものの「変質具合」に対して思う感覚とよく似ている。

「便利でしょ?」の前に「ズレている」というか…って、これじゃあただのグチじゃないか。


こんなことが頭をよぎってること自体、低空飛行だなぁ…なんて思っちゃうんだけど、そんな時に思い出したのが昨日聞いた説法のこと。

「凡聖不二(ぼんじょうふに)」という言葉があって、意味は「お釈迦さま(聖人)もわたしたち(凡人)も本性においては同じ人間(聖も凡もふたつにあらず=違いはない)。迷っている人も悟っている人も違いはない」みたいなことだった。
芦田愛菜ちゃんもインタビューで似たようなことを話してて素晴らしいみたいな小話も…。

全ての人の中にいいことも悪いことも全部ある、今見えてる面はその一部だと。わたしにとっては陰陽マークで考えるよりも、カタカムナの見方で考えるほうがわかりやすかったように感じる。

つまり、現在自分は暗い部分を走行中なだけ…だとも言えるとかなんとか。


そんなことを考えていて「あ…」と思い出し本棚をのぞいた。
そうそう、この本を買ってたんだけどまだ手をつけてなかったんだ…というこの本はこちら↓

思い出した勢いで読み始めたら第一章がスルリと読めた。
ちなみに第一章はブッダの「無我:自分なんてないから」の話。

ブッダの話も面白かったのだけど、勢いに任せて第二章も読み始めたら、そちらは「空:この世はフィクション」ってお話で。

その中に「この世界は『ディズニーランド』みたいなもんである」っていう言葉があって…

ここでひとつ考えてみよう。
「ミッキーマウスは、存在するのか?」と聞かれたら、どう答えるだろうか?
みんなの心には「いる」。でも実際には「いない」。
「いる」とも「いない」ともきめられない。
この絶妙なかんじ。これが「」なのだ。

「自分とか、ないから。教養としての東洋哲学/ しんめいP 著

これを読んでいて、映画「34丁目の奇跡」の「サンタクロースはいるのか?いないのか?」裁判所が判決を出すシーンを思い出したけれど…とても美しい終わりにしていたんだよね。

「いない」けど「いる」ということにする、という「情」の勝利みたいなものを「いい話」「美しい話」としがちなんだけど…。

見方を変えると、確かにこういうところにこそ世の中の「ねじれ」みたいなものの原点がスルッと隠れているような気がしているんだよね…って、冒頭のハッピーマンデーにダメ出し話もかぶってくるような話なのでは?なんて思い始める…と、壮大になるのでこの辺りにして本の続きを読むことにする。

そう、「スポーツの日」だから「スポーツの秋」なんだろうけれど、スポーツしなかったわたしとしては「読書の秋」を敢行することにするのだ。




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