「たいだし」の大切さを知る 465
腰が痛い…
久しぶりの腰痛に夕方から若干弱り気味でいる。
心当たりは、日中のATMでの待ち時間…。
二人ほど前にいらしたので「この待ち時間は坐骨でしょ」と意識し始めたものの…後ろに人がいたため、いつものように自分の手指でガイドすると「この人…そんなにお尻かゆいの?」みたいなことになっちゃう恐れがあることに気づき、ここは自分の意識のみでどのくらい動かせるかやってみようとあーでもこーでもしていたところ…どうやら、動かさなくていい場所や筋肉を無理に動かしたみたいだった。
すぐに痛みがなかったから後からこんな痛みになると予想もしていなくて、久しぶりに「痛みって辛いなぁ、もう…」なんてしょんぼりしてしまう。
そんなだから「もう寝たい…」なんて思うのだけど、これっていつも言ってることすぎてあんまり「そりゃそうなるよねぇ」みたいに自分で自分に同意できずにいたりして、複雑な気持ちになる。
どうしたいかなぁ…なんてぼんやり考える。
まず横になりたいなぁ…
っていうか、ちょっと骨とか離れたい…
日常のこと、毎日のことってわかってるんだけど…ちょっと体のこととか頭に浮かべたくない気分だよなぁ。
人間だから体から離れるなんて無理でしょ?なんてところだけど、さすがに今は前向きに捉える気力がないかも。
そんなことを考えていたら猫の足音が聞こえてきた。
「そうだ、この人(猫)最近朝早いんだよなぁ…」なんて思い出す。
ここ数日、朝4時前後に必ず「にゃーーーんっ!」と高らかに寝ているわたし達に声をかけにくる。
結構頑張るので、こちらもそのまま目覚まし時間まで頑張るのをやめ、一旦起きだして彼のガイドについて階下に降りていく。
「ごはん、足りなかったかな…」なんて思いながら行くのだけど、結構しっかりごはんは残っていたりする。
その前にシュッとした姿で座り、ジッとこちらを見上げるので
「あ、お皿持つ?」
とこちらがごはんのお皿を彼の口元に近づけるとガリガリと美味しそうに食べ始める。
「あ、食べるんだ…」と寝ぼけた頭で思っていると、突然「あ、満足しました。じゃ…」みたいに無言でスーッとどこかへ消えていく。
そうかと思えば、ごはんじゃない時もあって、ただただ早朝に「なでて」の時もある。
これもまたなで続けていたら突然「あ、もういいです。じゃ…」みたいにどこかへ歩いていく。
「え?もしかしてこのためだけに起こしにきたん?」なんて最初の頃こそ思っていたのだけど、最近はこの「だけ」がすごく重要なんだよねーとしみじみ思う。
その「だけ」が叶ったか叶ってないか、満足か不満かで彼のその後1日のクオリティが全く違っているように見えるのだ。
「ごはんを追加して」でもなく「お皿を持って食べさせて」
「ごはん」でもなく「なでて」「遊んで」
「緊急」や「必要」じゃなくて「たい」だけ
そんなこと人間だったら赤ちゃん以外なしでしょ!なんて思っているのは人間の都合で。
彼の「〇〇したい」=欲は「ただそれだけ」なのだ。
たったひとつの「お皿を持ってもらって食べたい」も立派な「たい」=欲。
たったそれだけを、そんな時間に…叶えていいのだ。
本当に大脳で生きてる常識の分別くさい人間は「たい」出しが下手だなー!
何か大きなこと、真っ当な理由が必要みたいに思ってるって不自由だなー!
なんて自分のことを棚に上げて思う。
もっと欲をストレートに採用してもいいんだろうなー…
「たい」出し上手になりたいもんだなー…
…鯛出汁って和食みたいだな
なんてしょーもないことを思いつつ、今日はわたしの「たい」を優先してさっさと寝ることにする。
腰の痛みがどこかにいくことを願って…。