見出し画像

【覚せい剤】【HIV】初公判〜判決、そして入院

いつもご覧いただいている皆さん、こんばんわ。
GWですね。皆さん、どう過ごされていますか?

今回は初公判〜判決、そして緊急入院となったことを書いていこうと思います。

毎回のことになりますが、

このnoteではこの先覚せい剤使用についての記述が多く出てきます。

このnoteは覚せい剤使用を推奨するものではありませんが、
現在使用している方を非難するつもりもありません。

🐜には他人をジャッジする気はありませんし、
その資格がないと思うからです。

その他、薬物についての🐜の考え方については前回のnoteをご覧の上、

続きをご覧ください。

あっけなく終わった裁判

なんとか地元に戻った🐜は、ただ裁判を待つ日々を過ごしていました。
初公判まで2週間ほどだったでしょうか。
ものすごく長くも感じたし、あっという間だったように思います。

保釈後、その足で担当していただいた国選弁護士の先生の事務所により、
簡単な打ち合わせをしました。
当然、留置所でも何度か接見に来ていただき、
事件についてお話ししましたが、
アクリル板越しの面会でしたから、ちゃんとお会いするのはその時が初めてでした。

警察の取り調べでも、弁護士さんにも、
使用動機について何度も聞かれました。
当然🐜の場合はセックスの快楽のために使用しており、
その旨を供述していました。
しかし弁護士さんから、セックスは人間の本能的な衝動と強く結びつく行動であり、
再犯リスクが高いとみなされ、裁判官に対する心証が悪くなるよと言われていました。
ただ、今更嘘をつくつもりもなく、むしろ真実を述べることで、
ラクになろうとしていたのかもしれません。

そして打ち合わせでは母同席の元、
再度使用動機を確認され、変更するつもりはないこと、
母が情状証人として出廷することなどを決め、
事務所を後にしました。

母の前でセックスの話をするのは当然気が引けました。
しかし、事実は曲げられないし、それも含めて自分のしたことの報いなのだと言い聞かせていました。

誰もいない裁判

初公判の日、母と🐜は揃って裁判所に向かいました。
裁判所の前には🐜の名前が書かれた紙が貼ってあり、
覚せい剤取締法違反と書かれていたのにビックリしました。
誰かに見られるんじゃないか、と内心ドキドキしましたが、
そこは知らない土地の裁判所ですが、これも当然の報いなのです。
弁護士さんと待ち合わせ、そのまま裁判所に入って行きました。

指定された法廷の前に着くと、
今度はどれだけの人がいるんだろうという恐怖に襲われました。
しかし扉を開けて見えた景色は、テレビで見たことのある法廷の景色と、
書記官が座っているだけのものでした。
そう、傍聴人はいなかったのです。

そして時間が来るまで傍聴席に母と2人で座って待ちました。
不思議なようですが、起訴された被告人だったわけですが、
保釈を受けていましたので、当然刑務官も、警察官も、廷吏も、
🐜を待ち受けて、身柄を拘束する、というようなことはないのです。

時間が来て、裁判官が入廷すると無言で起立を求められ、
そのまま柵の中に入るよう促され、証言台へと向かいました。

時間で言えば、45分程だったでしょうか。
取り調べで聞かれた一通りのことを検察官が話し、
それについて間違いないのか、裁判官から尋ねられます。
そして🐜は「間違いありません」と答えたのです。
検察官の尋問はとてもいやらしいものでした。
さも極悪人かのような言い方で、🐜を追い詰めて来るのです。
何を言われたのか、もう忘れちゃいましたが、
特に印象に残っているのは、「もう覚せい剤抜きでセックスできないのではないのですか?」という質問です。
今になって思えば、これは本当に核心をついた質問でしたが、
若かった🐜は反発心から、「現時点ではそんなことはないし、今後そうなるようなことがあれば、2度とセックスしない生活を送ることにします。」と答えました。w

そして弁護士さんの反対尋問では、
それまでに犯罪歴がないこと、年齢も若く、母親の監護の下、
更生の余地があるという旨のことを言っていただき、
🐜の尋問は終わりました。

次は情状証人である母の尋問です。
🐜と同じように検察官からのいやらしい尋問を受けていました。
遠方にいて変化に気づかなかったではないか、
今後も目が届かないのではないか、というようなことを言われていたと記憶しています。
弁護士さんの反対尋問では親子関係の良好さ、今後は同居していくこと、などを確認し、母の尋問は終わりました。

そして検察官からの懲役1年6ヶ月が求刑され、次回判決の日程を言い渡され、閉廷となりました。

弁護士さんからは事前に初犯の場合、懲役1年6ヶ月(執行猶予3年)が一般的だと聞かされていたので、
やはりそうなのか、と思いながら、
母と2人で帰宅したのでした。

判決は驚きの展開

初公判からきっかり2週間後、判決言い渡しの日が来ました。
弁護士の先生もいるし、一人で行くから大丈夫だよ、と母には言いましたが、
どうしても一緒に行く、と言い張り、また2人で裁判所へ向かいました。
それが母なりの愛情だったのだろうと思います。

しかし今回は裁判所の様子が違いました。
判決の日、というのはどうやら裁判所の事務手続き上、
同じ日に何件も言い渡しの予定が入っているらしく、
その日、貼り出されていた紙には6人ほどの被告人の名前が書かれており、
🐜はその2番目でした。

なんだか嫌な予感がするなぁと思いながら法廷の扉を開けると、
そこは超満員の傍聴席。
母も呆気にとられ、誰なの、この人たち、と動揺していました。
いわゆる傍聴マニアの方達が判決だけを聞きに来られていたんですね。
この時、本当に母を連れてくるべきではなかったと深く後悔しました。

判決は予想通り、懲役1年6ヶ月(執行猶予3年)の判決で、
10分ほどで終わりました。
そしてそのまま証言台から傍聴席を通り、退廷しました。

あの時の傍聴人の人たちの目線は冷たいような、
かといって、そんなに関心もなさそうな、
独特な目線を感じました。

一番恐れていたこと

一連の裁判が終わり、地元で職探しを始めました。
しかし誰かに見られたら、何もかもバレるんじゃないだろうか、という恐怖心から、
探す職種にも悩み、なかなか動き出すことができずにいました。

そしてある日、ハローワークから帰ってくると、
母が血相を変えて詰め寄ってきたのです。

「これはなに!?」

覚せい剤でも注射器でもないですよ。
手に持っていたのは、保健所でもらったHIV陽性と書かれた紙と、
拠点病院へ提出するための紹介状でした。

ああ、終わった。

そう思いました。
母にだけは死ぬまで隠し通すつもりでいました。
そのため、関係書類は部屋に隠していたのです。
しかし母はどこかでまだ🐜のことを疑っていたのでしょう。
荷物を漁っていたのでした。

🐜と母の間には昔からプライバシーがない親子関係でした。
🐜がゲイだと知られたのも、10代の頃、当時お付き合いをしていた人からもらった手紙を勝手に読まれたことからゲイバレしてしまったのです。
そしてお互いに心の準備の出来ていないままの強制カミングアウトとなり、
当時の🐜はとてもショックを受けました。当然母もですが。

その悲劇が繰り返されてしまったのです。
🐜には話すつもりはなかったし、母もまさかこんな爆弾を抱えていたとは思ってもみなかったでしょう。

その時、何を話したのか、あまりよく覚えていません。
ただ🐜は「なんでこんなことするの、死ぬまで隠し通すつもりだったのに」と部屋に籠り、1日中泣きっぱなしでした。

これが🐜の人生の2回しかない大号泣の2回目。

なんで2回しか大号泣したことないの?って思う方もいるかも知れません。
🐜がとんでもなく強い人間のように思われているかも知れません。
そうではないんです。
人生の中て起こって欲しくはなかったことを、
この段階でもう経験してしまっただけなのです。

全ては自分の招いたことです。
でも、母には同じものをそのまま背負わせたくなかったのです。
数日、部屋に籠りきりになり、
思い出しては泣き、思い出しては泣き、を繰り返していました。
母はそんな🐜を見て、「恋人と離れて悲しいのか」などと心配してくれていましたが、
泣き疲れた🐜は「違う」としか答えることしかできず、
母には心配をかけたなと思います。

そして仕事が決まり、収入が安定したら病院に行くことを決め、
母にその旨を伝え、職探しを再開したのでした。

病気は待ってくれない

しかし病気は待ってくれませんでした。
少し前から体に発疹が出始めていたのです。

本能的に、なんかヤバイなー、もうちょっと待ってよ、と思いましたが、
とうとう顔や唇にまで発疹が現れたのです。

さすがにこれはもう待てないと思い、
状態を母に伝え、すぐに拠点病院へと向かったのです。

保健所からの紹介状があったので、
すぐに血液内科の初診を受けることになりました。

当時はこの血液内科っていう言い方、とても嫌でした。
当然HIV以外の患者さんもおられるわけですが、
HIV患者となったとき、すぐにHIVを連想させるのではないかと心配になり、
しばらく通院するのが怖かった時期があります。
しかし病院によっては感染症内科、であったり、
もっと露骨な診療科名があるようで、それを知って内心血液内科はまだマシな方か、と思ったのでした。

そして診断の結果は、進行した梅毒でした。
梅毒には段階があり🐜は2期に進行していました。

梅毒の徴候や症状は進行に応じた3段階でそれぞれ大きく異なる。Ⅱ期以降の性器や全身の皮膚の特徴的な薔薇模様で知られる。自然完治と誤解するような潜伏期を2度挟みながら、病状が徐々に悪化していき、最終的に死に至ることもある。

Wikipediaより

しかし🐜には初期症状となるようなものもなく、
保健所での検査でも梅毒は陰性でした。
考えられるのは保釈後のめちゃくちゃにクスリに没頭していた時期の感染でしたが、
感染時期から見て、進行具合が異なります。

これは当時の拠点病院の研究対象となり、
たくさんの写真を撮られ、特殊な症例として記録されたのでした。

梅毒自体は点滴で治療することになりましたが、
症状が進んでいることから即入院となり、
しかも特別室(1泊3万円!!)しかないということで、
特別室で入院し、梅毒の治療をしながら、
今後の方針を考えることになりました。

ご存知の方も多いと思いますが、
HIVの治療においてとても大切な数値があります。
それはCD4という白血球の数値です。
これをいかに低下させず、高めていくかが治療の肝になります。
当時の🐜はCD4が590ほどだったと思います。
正常値が500〜1200ほどと言われているようで、
当時の🐜はまだAIDSを発症した、というわけではなく、
HIV陽性者、という扱いでした。

このCD4と同時に大切な数値がウイルス定量というもので、
これは体内にHIVウイルスがどれくらいいるのか、
というのを計測したもので、
当時の数値は忘れてしまいましたが、
このウイルス定量も下げていくことがとても大事になってきます。

そして当時のHIV治療は病院によって方針が異なり、
投薬は発症するか、その寸前まで待ってから、という方法と、
CD4が高く、健康なうちに投薬治療を始めましょうという方法に分かれていました。

地元に帰る前に見送ってくれた友達はまだ投薬していない、と聞いていたので、
🐜もそうなるのであろうと思っていましたが、
🐜の拠点病院では早期治療開始の方針をとっており、
梅毒の治療が終わってから、早めの投薬をすることになりました。

しかし経過観察が必要なため、再度入院が必要だと言われてしまったのです。
お薬飲むだけで、なんで入院なの!?と思ったのと同時に、
また治療費が、、、と思いました。

梅毒治療の段階では身体障害者の手続きができず、
健康保険の高額療養費制度しか使えなかったのです。
しかも特別室に1週間も入院したのです。
それはもうとんでもない金額の治療費が必要でした。

しかしHIVの治療は自立支援医療の対象であり、
身体障害者手帳を発給の上、所定の手続きをすれば、
所得に応じた一定額の負担額以上はかからない、という大変ありがたい制度があります。

こうして病院のソーシャルワーカーさんに手続きを進めてもらい、
なんとか投薬治療を始めることになりました。

が、投薬開始直後は本当に大変でした。
その話は、また次回にしようと思います。

いかがでしたでしょうか。
今日はちょっと長くなりましたね。

🐜にとってはとてもパーソナルな部分を掘り起こしたので、
なんだか書いててちょっとしんどめ。

何のために書いてるんだろ?って思いながら書いてましたが、
全ては自分のためです。
自分の人生の棚卸しをしながら、自分自身と向き合っています。

それを誰かが読んでくれて、何か感じ取ってもらえるものがあるのであれば嬉しい限りです。

いつもDMなどで感想をお送りいただけて、
本当に嬉しいです。ありがとうございます。

先日お知らせした、命知らず太郎さんとの対談も今週末に控えています。
ドキドキ?ワクワク?いろんな思いがありますが、
ざっくばらんに対談できればと思っていますので、
お時間のあるかたはよろしければぜひご覧ください。

それではまた!^^

いいなと思ったら応援しよう!