【覚せい剤】【HIV】保釈、そして、HIV告知。
自分のモチベーションが下がらないうちに、
今回は保釈後の生活を書いていきたいと思います。
ここから覚せい剤だけでなくHIVについての記述も出てくるので、
タイトルに【覚せい剤】【HIV】とわかりやすくつけていこうと思います。
毎回のことになりますが、
このnoteではこの先覚せい剤使用についての記述が多く出てきます。
このnoteは覚せい剤使用を推奨するものではありませんが、
現在使用している方を非難するつもりもありません。
🐜には他人をジャッジする気はありませんし、
その資格がないと思うからです。
その他、薬物についての🐜の考え方については前回のnoteをご覧の上、
続きをご覧ください。
保釈は何のため?
さて保釈を受けた🐜は1度実家に帰ったあと、
一人暮らしをしていた部屋の片付けをしに自宅へ戻りました。
「2週間で全て終わらせてきなさい」
母が定めたリミットは2週間でした。
数年暮らした部屋です。
それなりの荷物があり、少しづつ荷造りを始めました。
いつかまた一人暮らしを始めるかも知れないけれど、
今はもういらないよな、というような家電類などの処分に困り、
知人カップルによければ譲りたいと連絡を入れました。
すると彼らはすぐに我が家に現れ、
いろいろと譲り渡すことになりました。
しかし、🐜は譲る相手を間違えたのです。
彼らはおもむろに、少ないけど、これ、お礼に、、、と、
茶封筒を差し出してきたのです。
🐜は処分するのにもお金がかかるし、
お金なんでもらうつもりはないよ!と伝えました。
が、彼らはその茶封筒を無理矢理手渡してきたのです。
荒れ狂う2週間の始まり
その茶封筒を受け取った瞬間、一瞬でわかりました。
あ、アレだ。
そう、彼らは覚せい剤と注射器を餞別に、と渡してきたのです。
そもそも逮捕されて地元に帰ることになったことを彼らに伝えていませんでした。
そういったことを伝えたら、彼らは自身の身を案じて連絡を断たれていたかも知れません。
連絡をとったカップルは何度か覚せい剤を一緒に使ったことのある友人だったのです。
というか、その頃は既にまともな友達とは自然と疎遠になり、
薬物を介した友人関係ばかりしか、周りにいなかったのです。
その時🐜はどう思ったのか。
今考えてもよくわかりません。
いや、何も考えていなかったのですね。
ただ目の前に現れた薬に手を伸ばし、その場で使ったのです。
仮にも保釈中の身です。
逃亡を防ぐための保釈金を払い、
指定された居所で裁判までを静かに待つ身分なのです。
保釈は保護監察などと違い出頭義務や尿検査などもありませんから、
何でもやりたい放題だったんですね。
🐜は居所を実家に指定されていましたが、
部屋の整理のために、裁判所と弁護士にナイショで自宅に戻っていたのですが、
それですら、本来重大な遵守事項違反です。
しかし部屋は片付けねばなりません。
母と相談の上、部屋に戻ったのです。
そう思って部屋に戻ったつもりでしたが、
覚せい剤を目の前にして、🐜はあまりにも無力で、無知で、愚かでした。
そこから引っ越しまでの2週間、
もう実家に戻ったら2度とできないんだから、と自分に都合のいい言い訳をしながら、
とにかく荒れ狂ったようにクスリをやっていました。
荒れ狂った理由
引っ越しのため、自宅に戻ったときに、
もう一つ、やらねばいけないことがありました。
それはHIVの検査でした。
検察官の最後の取り調べの際、
突然こんなことを聞かれたのです。
「ケンジと性交渉はあったのか」
当然、何度となくしたことのある仲でしたから、
「あります」と伝えました。
すると検察官はこう言ったのです。
「彼はカリニ肺炎で入院していたので、あなたもすぐに検査した方がいいでしょう」
カリニ肺炎とは、現在ニューモシスシス肺炎と呼ばれる病気です。
わかりやすくいうと、HIV感染により引き起こされる疾患の一つで、
ケンジさんはそのために入院していた、ということだったのです。
🐜がせっせと看病していたのは、この肺炎による発熱だったということなのでした。
その時にはすぐに何の病気なのかはよくわかっていませんでしたが、
検査に行きなさいということは、きっとそういうことなのだろうと漠然と受け止めましたが、
今思うと検察官のこの言葉は、異例中の異例だと言えます。
事件に関わりないこと、かつ個人の重大なプライバシーに関わることです。
それにも関わらず、AIDSであったということは伏せながらも、
検査に行きなさいと進言してくれたことには、
今でもとても感謝しています。
そして🐜は自宅に戻ったあと、すぐに近くの保健所に行きました。
20代後半になって、生まれて初めてのHIV検査でした。
今でこそ、予防啓発も盛んになり、定期的な検査を受けるのがスタンダードですが、
そもそも田舎育ちでHIVなんて遠い都会の話だと思っていました
ですから検査なんて1度も受けたことがなかったのです。
当時はどうやって受けるのかもわからず、
ネットで必死に調べて近くの保健所で匿名で受けられることを知り、
保健所へ駆け込んだのでした。
今は即日検査といって、その日のうちに結果がわかるようになっていますが、
当時は検査結果が出るのは1週間後でした。
採血を済ませ、自宅に帰る道のりで、
一つ大きなタスクを終えた、妙な達成感を感じつつも、
一抹の不安は拭えませんでした。
しかし結果がどうであれ、これも自業自得、と自分に言い聞かせながら、
部屋にもどり、荷造りを始めたのでした。
大半の人は、感染リスクがある人は、
結果が出るまで気が気でなかったとよく聞きます。
しかし🐜は検査のことなんて忘れてしまうほど、
荷造りと、餞別に頂いたクスリに没頭していたのです。
運命を大きく変えることになった日
そして検査結果が出る日になりました。
半分クスリが効いたまま、チャリで保健所まで向かいました。
受付で検査結果を聞きにきた旨を伝え、
採血の際にもらった半券を渡し、ロビーで座って待っていました。
するとしばらくして数人の職員さんが出たり入ったりと忙しなくなり、
忙しいのかな?なんて気楽に思って眺めていたところで、
部屋に呼ばれ、個室に通されました。
結果を説明してくれたのは保健所の常駐医師と看護師さんでした。
「落ち着いて聞いてください。結果は陽性でした。」
その言葉を聞いたとき、
あぁ、終わった。という思いと共に、
あぁ、これからが始まりだ、と思ったのを今でも鮮明に覚えています。
何が始まるって、もちろん治療もですが、
まずは母にだけは死ぬまで隠し通さなくては、と思ったのです。
ただでさえ、生んだ子供がゲイで、シャブ中の前科持ちになった今、
これ以上、母に何も背負わせたくない、と本能的に思ったのです。
そんなことを考えていると、
思い詰めている、とでも思われたのか、
「大丈夫ですか?よければ当事者の方たちのグループなどもありますがご紹介しましょうか?」と言ってくれました。
しかしもう今は母に隠し通すことを決心した身です。
当事者であれ、1人でも知られたら、ゲイの狭い世界では、
いつか、どこからか、広まってしまうに違いない、と思っていました。
ですからその気遣いは丁重にお断りをし、
拠点病院へ行くための紹介状をもらい、
その場から退散しました。
なんでしょう。
落ち込む、とか、悲観的になる、といったことはなかったんです。
なんせリスクを承知の上で危ないことをしていたわけですし、
目下のミッションは母に隠し通すことです。
落ち込むどころではなかったのでした。
その告知を受けてからは、
もうとにかく我を忘れるかのようにクスリに溺れました。
引っ越しの日、そのトラックが到着し、
自宅を訪れても、🐜が家におらず、
母から電話があって、「トラックが来ているけど、どこにいるの!」と言われるその時まで、
近くのホテルでやっていたくらい、ホントにギリギリまでやっていました。
ヘロヘロになったまま、引っ越し業者に荷物を引き渡し、
自分も地元に帰るために駅へ向かいましたが、
最後に友人が少し時間をとってくれ、
会うことになりました。
彼はクスリをやった仲でもありますが、
それ以外の面でもいい友人としての付き合いがありました。
ですから捕まったこと、HIVであったこと、
それを知った経緯などを話しました。
すると、彼は、「ごめん、それは自分が移したかもしれない。」というのです。
直感的に、発熱があった時期も全く違ったので、
それは違うと思うよ、と言いましたが、
こんな近くにHIVの人がいたんだ、みんな隠してうまく生きてるんだ、と思ったのと、
正直に話してくれたことが素直に嬉しく、やっぱこの人好きだな、俺、と改めて思いました。
そして彼に見送られながら、地元へと帰って行ったのでした。
いかがでしたでしょうか。
覚せい剤のことだけでなく、HIVのことに話が及んでくると、
自分でもたくさん思うことがあり、
今回はなかなか進みませんでした。
でもここからはHIVに関することもたくさん出てきます。
これを読んでなにか少しでも読者の方の中に感じるものがあれば幸いです。
次回は初公判〜緊急入院までを書いていこうと思います。
いつもXにたくさんDMを頂いています。
本当にうれしいです。
感想だけでなく、
こんなこと聞きたいよ、とかそういったこともあればどんどんお寄せくださいね!
それではまた!